13①

近ごろの日記(や、おしゃべり)。先日、暇をみて三、四つむこうの町をぶらぶら。朝から青空古本市をやっていた。連休を潰すのに文庫本三冊とDVD一枚(ふるい西部劇)を買う。

 

13①文庫本一冊目『緑の館』/ちよっとまえに『娼婦マヤ』(1949、DVD)というフランス映画をみていたら頭にターバンをまいたカシミールというインド人がでてきた。行者のごとき落ち着きぶりで(豪華客船の給仕である)、映画のあちこちに顔を出してはシタールをつま弾きながらのたまうのだ「生も死も幻、あなたも、あなたのいだく女も。何もかも幻(すべてはむなしき技)」。

 

おかげでイリュージヨン(幻)というカシミールの発音が頭から離れなくなったよ。そして、この宣託をきいたとたん般若心経の出だしと、『緑の館』(映画ではなく小説のほう)の最後の台詞が頭に浮かんできた。そんな折、うまい具合に百円均一の古本台にこの文庫本をみつけ、また読んでみたくなったわけです。

 

『娼婦マヤ』は(現実にはどうなのか、わたしは知りませんが)ふるい映画のなかではよくある悲恋ものだ。異郷の港町、マドロスと港の女(だいたいプロ)との愛、予期せぬ事態によるすれ違い。うまく料理しないとありきたりな話になってしまう。あろうことか厭世哲学風味付けの『娼婦マヤ』です。まいったなと思っていると途中からマルセル・ダリオが船員役で登場してきた。

 

船客であった高貴な✳✳夫人に懸想し、深刻だ。寝室に忍び込み、彼女の残り香に酔いしれた挙げ句、彼女のネグリジェを盗んでしまったらしい(危ないな、これはアウトでしょう、まずワンナウト)。これをネタに酒場で仲間の船員共がマルセル・ダリオを冷やかし、いじりまくる。カッとなったマルセル、いきなり相手をナイフで刺殺した(これは、わからんでもないが、アウトだ。これでツーアウト)。

 

警官から追われ、ある娼婦の部屋に逃げ込んだが、またひと悶着。たわむれに✳✳夫人のネグリジェを着た娼婦をみて(マルセルくん、✳✳夫人の下着持参で逃亡か、変態だね)、忘我と恍惚のマルセル・ダリオ。いっちゃってます。✳✳夫人だと思い込み娼婦に迫ります(これは、仕方ない、わかるよ)。狂ったように部屋を飛び出し娼婦街の迷路をさまようが•••

 

冷たい石畳のうえに、銃弾を撃ち込まれ倒れ伏しているマルセル・ダリオ(これは完全にアウト、スリーアウトでおしまい)。この陰うつな厭世観どっぷりの『娼婦マヤ』のなか、目をむき顔を引きつらせたマルセル・ダリオの誇張この上ない大仰な演技にわたしは大笑い、これにはカシミールの御宣託(「すべては自分の幻だ」)も吹っ飛んだね。

 

ここまで幻に溺れこめる(自分の幻に食い尽くされやがって、との嘲笑も聞こえてくるが)というのもまた、このつらい浮き世へ思いっきり体当たりを食らわせる生き方のひとつとして、わたしはうらやましいよ。あのカシミールはもしかしたら、「すべては幻」という認識を乗りこえ「解脱」の境地を会得しているのかもしれない。

 

しかしいつまでたっても解脱などできそうにないわれわれ凡夫は、どこまで行っても幻と悪戦苦闘の日々。その果(は)てに倒れたマルセル・ダリオは行けるとこまで行った野郎なのだ。そのマルセル・ダリオですが、『娼婦マヤ』の少し前に『デデという娼婦』(1947、イヴ•アレグレ監督)のなかで、娼婦を食い物にするヒモを、生き血を吸う蛭(ひる)のごときいやらしさで、シリアスに演じきって絶品です。

 

この『デデという娼婦』も『娼婦マヤ』とおなじく、異郷の港町、マドロス、港の娼婦、ふたりの愛とその破滅、という手垢まみれの古くさい話だ。にもかかわらず、何かを引きずりながらでしか生きてゆくことのできない人生、その絡(から)まりを断ち切ることも解(ほど)くすべも見つけられずに生きてゆく人生を、正面からねちっこく描いて、こちらの胸の奥に達するものがあります。

 

こういったからといって『マヤ』がつまらないないなどというつもりはありません。映画の冒頭、そして映画のラストの、ひとりの娼婦とひとりのマドロスとの会話をお聞きください。

娼婦「どこから来たの?」

船員「海から。きみは誰?」

娼婦「あなたの望む誰でも。(休息のあとは)どこへゆくの?」

船員「海へ」

どうです、現実の世界でこんな夢みたいな素晴らしい(学芸会で聞けそうな)会話をしますか。この映画そのものが、すべては「夢もうつつも、イリュージヨン」の世界なのだ。詩的な情緒がたっぷりとしたたりおちています。

 

ひとつ言えるのは休日の午前中にみる映画ではない、ということ。いくらノーテンキなわたしでも、少々どよん〜となってしまった。『デデという娼婦』も午前中はだめだね。いくら胸にグッとくるとはいえ。そうだ、肝心の『緑の館』を忘れるところでした。以前読んだのは岩波のふるい版(訳者ちがい)で、最後の台詞は「のぞみ、祈り、善行、取りなし、すべては無意味なのだ」(✴)。

 

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(✴)この台詞をはじめ、すべて記憶のみによる引用のため不正確さを伴っています。まあ、どちらも(『マヤ』の「幻(錯覚)」と『緑の館』の「無意味」とはぜんぜん意味が違いますが)えらく厭世的だな、と感じたことによって、『マヤ』から『緑の館』の台詞を連想してしまったようです。なお、ワンナウト、ツーアウト、スリーアウトといういい方も、何かの映画からの借用です。