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劇場に足を運ばなくなって久しいが、最近では副音声コメンタリーのみならず、生コメンタリーによる上映もさかんに行われているという。以下は、ひと昔もふた昔も前、わたしが映画小屋通いをしていた頃の話です。

 

物語がそろそろクライマックスに向かい出したかというあたりで、わたしの斜め前にすわる小太りの男性はコンビニ弁当を食べはじめた。なんの問題もない。ここは新作の封切り館とか、アート系のミニシアターではないのだ。マニア向けの掘り出し物を特集する「本物」の名画座でもない。客は暇つぶしに入って居眠りをしているか、競馬新聞に目を凝らしているか、かかえる悩み事で映画どころではない皆さま方なのだ。

 

わたしは居眠りなどしないが、暇つぶし系の観客だ、弁当持参の。弁当食ったぐらいで誰も怒りゃしない。そんな映画小屋である。で、くだんのかれは弁当をあっという間にやっつけるとパンにとりかかった。一個じゃない。それから焼きそば。いい匂いだ。これもあっという間。つぎは予想通りポテチである。これは映画鑑賞スタイルの王道だ。もしやとおもったが、その通り、一袋ではすまなかった。

 

つぎつぎと袋を噛み裂き、街を破壊するゴジラばりに、その非情のあごで無数のポテチを噛みつぶしてゆく。これには(うるせえなという怒りや呆れたおもいなど吹っ飛び)おおいに感動させられてしまい、わたしは中村錦之助どころではなくなった。スクリーンでは錦之助が炎につつまれながら柱に母と父と彫りおえ、いままさにそのあいだに「わたし」と彫っているところである。城を包囲した敵に火を放たれ絶体絶命だ。

 

物語の盛り上がりとともにこのメタボ野郎の噛み砕き回転数も一気に上がってゆく。口からあふれ、あたり一面に飛び散るポテチの破片、粉末。だが、やつの本当のすごさはそんなことではなかった。やつはポテチをつぎつぎと噛み砕きながら、スクリーンに食い入るように身を乗り出し、何事かをブツブツといっているではないか。わたしはやつのほうに身をかたむけ、耳を澄ましてみた。

 

これはすごい!かれがしゃべっていることは、錦之助にかんするすべて、まさしくすべてのことであった。錦之助の生い立ち、芸歴、出演作とそのときの演技についての批評やコメント、かれについての小ネタ裏話といったトリビアル、もうどんな映画大辞典も太刀打ちできそうもない博覧強記である。これらのことを情熱的に、のめり込むような迫力をもって延々としゃべっているのだ。ただ自分のためだけに。

 

わたしはスクリーンから目をはなさず、耳はやつの実況に神経を集中させる。これはもうオーディオ•コメンタリーそのものではないか。そういえば、その週は錦之助の出演作二本のカップリングであった。わたしはだいたい暇があると、とりあえず行きつけの劇場のどれかにでかけるので、上映作品がわかるのは劇場に着いてからということが、よくあった。この副音声野郎は錦之助二本立てに合わせてやってきたにちがいない。

 

とんでもない錦之助クレイジーなのだ(それとも、ありとあらゆる時代劇役者について副音声実況をやっているとでもいうのか)。かれの副音声でいまだに覚えているものが、ひとつだけある。後年、笠原和夫の「鎧を着た男たち」を読んでいるとき、おなじ逸話に出会い、あっとなったことがあるからだ。錦之助が『日本侠客伝』で千葉出身のやくざ者を演ったときの話。

 

笠原和夫が書いた台詞を、錦之介がきちんと千葉なまりの言い方にしてしゃべっていた(それをみた笠原和夫はおおいに感服したという)。さて副音声の実況をありがたく拝聴させてもらった『反逆児』、このときの併映は『笛吹童子』シリーズのどれかだった。やはり時代劇だがオリエンタルムードあふれる愛と妖術の冒険活劇だったような。敵の城に囚われているお姫様を錦之介が助け出そうとしている(?)。

 

火のついた矢がどんどん襲い来る。錦之介、ここでも炎につつまれています。話の内容は覚えていないのだが、この場面のお姫様の台詞は忘れられない。負傷したお姫様が錦之助に抱きかかえられながら、息も絶え絶えに「ああ、人生はなんてワンダーなの」(え?時代劇でワンダーなんていうのか、記憶違いだろ?••••たったいま、そう思ったよ••••『笛吹童子』ってなんでもありの無国籍超時間的ファンタジーなのか?)。そして「続く」で幕(✳)。

 

生の声による副音声をわたしが体験できたその劇場は、よく足ともの暗闇を矢のように走りゆく小動物がいる映画小屋であった。ときおり休憩スペースの片すみで街のお姉さん(プロの方)が静かに煙草をふかしている映画小屋であった。そしてそこは、早朝の一回目の作品は途中からの上映であった。二本のうちのどちらかの終了時間を、競馬のメインレース直前に設定するための調整である。

 

こんなにもワンダーな映画小屋であったからこそ、くだんのポテチ野郎のような小屋チュー(映画小屋中毒)が棲息することができたのだ。映画をより豊かに楽しむために、みずからオーディオ•コメンタリーの実況をおこなうポテチ男。あれだけよどみなく魂の副音声実況ができるためには、つねに唇をあぶらきった状態に保っていなければならない。そのためのポテチ爆食いだったのだ(噛み砕く動きが歯切れの良さを保つ効果もあろう)。

 

いまにして思えば、かれはオーディオ•コメンタリーの先駆者である。また、メタボという危険をおかしてまでも映画鑑賞の快感度を高めようとするその態度は、かれが「本物」の小屋チューのひとりであったことを示している。以上は、昭和の終わりまで、あとほんの少しという頃の話です。

 

(✳)いつものように、この話もすべて記憶のみに頼った記述です。