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われわれの大部屋に、ひとりの患者がやってきた。両眼の網膜に損傷があり、放置すればいづれ失明のおそれあり、ということであった。いつもぼんやりと窓の外をながめては病院生活のながい一日を潰していた。とりわけ夕暮れどきには、何か貴重なものを見ているかのように、昼と夜とのあいだの微妙な色あいに染まった遠くの天空をじっとながめていた。

 

治療がすすむにつれ日に日に、かれの憔悴が目だってきた。憔悴の度に比例して、かれの態度が横暴といえる程にわがままになってきた。朝の検温にきた看護師にむかって「✳✳さんはどうした、あんたじゃいやだ、✳✳さんを連れてこい」と駄々をこねる。夜の見回りにきた看護師をつかまえては「いろいろ考えて眠れない。トランプをひと勝負やろう」と困らせる。

 

そのうち一晩中うなったり、めそめそしたりと手のつけようがなくなった「痛いよ、あれは治療じゃない、拷問だ。考えただけで気が狂いそうだ。治療が成功しても精神が崩壊してしまうぞ。これじゃ目が見えなくなったほうがましだ。こわいよ、朝がくるとまた連中がやってきて拷問室に連行する。おれに構わないでくれ。このまま夜の暗闇の中に放置しておいてくれ」。

 

さすがに、こんなことが毎晩つづくとあっては、われわれ大部屋一同、困ってしまった。そこで優しいわれわれは(というのも人は、病気や怪我の身になって初めて、これまでのおのれのわがままや傲慢さに気づき、優しさというものを知ることになるのだから)その男をなぐさめ元気づけ、いかにして治療の痛みを耐えればよいか、種々のアドバイスを試みることにした。

 

「昔の戦士は敵陣に突っ込むとき、恋人や、ひそかに思っている人の名を一心不乱に念じることで恐怖心を振り払ったものさ。そんなひとはひとりもいないのかい」。とか「つらい治療を耐えた自分へのご褒美として、何か豪華なプレゼントをいまから準備するといい。そうだ、どこか未知の土地への旅行とかいいんじゃないか。新たな視覚による新たな発見、新たな喜びが得られること、間違いなし」。

 

あるいは「何かやりかけのことや、やり残しているようなことは?」はては「こいつはどうしても許せんというような奴はいないか。目が見えなくなると返り討ちにあって悲惨だぞ」さらには「毎日あいさつをかわす野良猫がどこかにいるんじゃないか。はやく退院しないと、さびしさで死んじゃうぞ」。とうとう、ひとりの人が声をひそめてこんなことを言った「いい宗教を紹介してあげようか••••

 

むかし中東に秘密の暗殺集団があった。団員は教祖によって、目がチカチカするような刺激の強い快樂に浸りきりにされていた。いざ指令を受けるや何の疑問も躊躇もなく喜んで実行にあたったという。その宗教の流れをくむ宗派だ。ここをちょっと抜け出して集会に参加してごらん。数回で効果てきめん。この世の不満や痛みなど忘れ去り、頭がくらくらするような至福を味わえることができるよ」。

 

われわれの親切は徒労に終わった。誰かのことを想うことにも子猫にも、さらには宗教にさえも生きる縁(よすが)を見いだせないような人間にどんな救いの手があろう。そんな人生とはなんなのだ。われわれ大部屋一同は、かれが拷問とやらに連行されている間を見計らい、おおいに議論した。優しいわれわれは結論した「かれの望みにそったお助けをするのが、真の優しさであろう」。

 

ある夜の、世の中に巣食う頑強な不満や痛みさえも眠りに落ちてしまうような深夜、われわれは綿密な計画と厳重な警戒のもと、その男をこっそりと(その男にも気づかれないようにして)病院から運び出した。そしてどんな夜のどんな深夜よりも深い、いりくんだ大都会の暗闇の底に放置してあげた。そのうずくまった姿勢をいつまでも保てるように、しっかりと暗闇の底に固定させて。

 

われわれは、みずからのなした優しさにおおいに満足して帰還した。それから、今後はぐっすりと朝まで眠れることに喜び、それぞれのべッドへはいる準備に取りかかった。その時ひとりの男が口をひらいた「しまった!かれに一番大事なことを聞くのを忘れていたよ••••もし目が見えなくなったら、あなたの大好きな夕暮れどきの天空を見ることができなくなってしまうが、それでもいいのかい、と。

 

••••というのも、夕暮れどきに窓の外ををじっとながめているかれに、あるとき声をかけてみた。すると本当にうっとりとした表情でこう応えてきたのだ••••雲と雲のあいだから斜めに差し込んでくる光の照り返しで、天空の一角が沸き立つ銀色のしぶきのように輝いている、その様子をじっと見ていると、こことは異なる世界がどこかにあるんじゃないかという思いにとらわれ、とてもしあわせな気分になってしまうのです」。

 

(網膜の治療をうけたことがある知人がいる。まぶたと頬骨のあいだ辺りに連日、注射針を差し込むのだが、なかなかの痛みをともなう、と言っていた)