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劇場に足を運ばなくなって久しいが、最近では副音声コメンタリーのみならず、生コメンタリーによる上映もさかんに行われているという。以下は、ひと昔もふた昔も前、わたしが映画小屋通いをしていた頃の話です。

 

物語がそろそろクライマックスに向かい出したかというあたりで、わたしの斜め前にすわる小太りの男性はコンビニ弁当を食べはじめた。なんの問題もない。ここは新作の封切り館とか、アート系のミニシアターではないのだ。マニア向けの掘り出し物を特集する「本物」の名画座でもない。客は暇つぶしに入って居眠りをしているか、競馬新聞に目を凝らしているか、かかえる悩み事で映画どころではない皆さま方なのだ。

 

わたしは居眠りなどしないが、暇つぶし系の観客だ、弁当持参の。弁当食ったぐらいで誰も怒りゃしない。そんな映画小屋である。で、くだんのかれは弁当をあっという間にやっつけるとパンにとりかかった。一個じゃない。それから焼きそば。いい匂いだ。これもあっという間。つぎは予想通りポテチである。これは映画鑑賞スタイルの王道だ。もしやとおもったが、その通り、一袋ではすまなかった。

 

つぎつぎと袋を噛み裂き、街を破壊するゴジラばりに、その非情のあごで無数のポテチを噛みつぶしてゆく。これには(うるせえなという怒りや呆れたおもいなど吹っ飛び)おおいに感動させられてしまい、わたしは中村錦之助どころではなくなった。スクリーンでは錦之助が炎につつまれながら柱に母と父と彫りおえ、いままさにそのあいだに「わたし」と彫っているところである。城を包囲した敵に火を放たれ絶体絶命だ。

 

物語の盛り上がりとともにこのメタボ野郎の噛み砕き回転数も一気に上がってゆく。口からあふれ、あたり一面に飛び散るポテチの破片、粉末。だが、やつの本当のすごさはそんなことではなかった。やつはポテチをつぎつぎと噛み砕きながら、スクリーンに食い入るように身を乗り出し、何事かをブツブツといっているではないか。わたしはやつのほうに身をかたむけ、耳を澄ましてみた。

 

これはすごい!かれがしゃべっていることは、錦之助にかんするすべて、まさしくすべてのことであった。錦之助の生い立ち、芸歴、出演作とそのときの演技についての批評やコメント、かれについての小ネタ裏話といったトリビアル、もうどんな映画大辞典も太刀打ちできそうもない博覧強記である。これらのことを情熱的に、のめり込むような迫力をもって延々としゃべっているのだ。ただ自分のためだけに。

 

わたしはスクリーンから目をはなさず、耳はやつの実況に神経を集中させる。これはもうオーディオ•コメンタリーそのものではないか。そういえば、その週は錦之助の出演作二本のカップリングであった。わたしはだいたい暇があると、とりあえず行きつけの劇場のどれかにでかけるので、上映作品がわかるのは劇場に着いてからということが、よくあった。この副音声野郎は錦之助二本立てに合わせてやってきたにちがいない。

 

とんでもない錦之助クレイジーなのだ(それとも、ありとあらゆる時代劇役者について副音声実況をやっているとでもいうのか)。かれの副音声でいまだに覚えているものが、ひとつだけある。後年、笠原和夫の「鎧を着た男たち」を読んでいるとき、おなじ逸話に出会い、あっとなったことがあるからだ。錦之助が『日本侠客伝』で千葉出身のやくざ者を演ったときの話。

 

笠原和夫が書いた台詞を、錦之介がきちんと千葉なまりの言い方にしてしゃべっていた(それをみた笠原和夫はおおいに感服したという)。さて副音声の実況をありがたく拝聴させてもらった『反逆児』、このときの併映は『笛吹童子』シリーズのどれかだった。やはり時代劇だがオリエンタルムードあふれる愛と妖術の冒険活劇だったような。敵の城に囚われているお姫様を錦之介が助け出そうとしている(?)。

 

火のついた矢がどんどん襲い来る。錦之介、ここでも炎につつまれています。話の内容は覚えていないのだが、この場面のお姫様の台詞は忘れられない。負傷したお姫様が錦之助に抱きかかえられながら、息も絶え絶えに「ああ、人生はなんてワンダーなの」(え?時代劇でワンダーなんていうのか、記憶違いだろ?••••たったいま、そう思ったよ••••『笛吹童子』ってなんでもありの無国籍超時間的ファンタジーなのか?)。そして「続く」で幕(✳)。

 

生の声による副音声をわたしが体験できたその劇場は、よく足ともの暗闇を矢のように走りゆく小動物がいる映画小屋であった。ときおり休憩スペースの片すみで街のお姉さん(プロの方)が静かに煙草をふかしている映画小屋であった。そしてそこは、早朝の一回目の作品は途中からの上映であった。二本のうちのどちらかの終了時間を、競馬のメインレース直前に設定するための調整である。

 

こんなにもワンダーな映画小屋であったからこそ、くだんのポテチ野郎のような小屋チュー(映画小屋中毒)が棲息することができたのだ。映画をより豊かに楽しむために、みずからオーディオ•コメンタリーの実況をおこなうポテチ男。あれだけよどみなく魂の副音声実況ができるためには、つねに唇をあぶらきった状態に保っていなければならない。そのためのポテチ爆食いだったのだ(噛み砕く動きが歯切れの良さを保つ効果もあろう)。

 

いまにして思えば、かれはオーディオ•コメンタリーの先駆者である。また、メタボという危険をおかしてまでも映画鑑賞の快感度を高めようとするその態度は、かれが「本物」の小屋チューのひとりであったことを示している。以上は、昭和の終わりまで、あとほんの少しという頃の話です。

 

(✳)いつものように、この話もすべて記憶のみに頼った記述です。

 

 

 

 

 

 

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われわれの大部屋に、ひとりの患者がやってきた。両眼の網膜に損傷があり、放置すればいづれ失明のおそれあり、ということであった。いつもぼんやりと窓の外をながめては病院生活のながい一日を潰していた。とりわけ夕暮れどきには、何か貴重なものを見ているかのように、昼と夜とのあいだの微妙な色あいに染まった遠くの天空をじっとながめていた。

 

治療がすすむにつれ日に日に、かれの憔悴が目だってきた。憔悴の度に比例して、かれの態度が横暴といえる程にわがままになってきた。朝の検温にきた看護師にむかって「✳✳さんはどうした、あんたじゃいやだ、✳✳さんを連れてこい」と駄々をこねる。夜の見回りにきた看護師をつかまえては「いろいろ考えて眠れない。トランプをひと勝負やろう」と困らせる。

 

そのうち一晩中うなったり、めそめそしたりと手のつけようがなくなった「痛いよ、あれは治療じゃない、拷問だ。考えただけで気が狂いそうだ。治療が成功しても精神が崩壊してしまうぞ。これじゃ目が見えなくなったほうがましだ。こわいよ、朝がくるとまた連中がやってきて拷問室に連行する。おれに構わないでくれ。このまま夜の暗闇の中に放置しておいてくれ」。

 

さすがに、こんなことが毎晩つづくとあっては、われわれ大部屋一同、困ってしまった。そこで優しいわれわれは(というのも人は、病気や怪我の身になって初めて、これまでのおのれのわがままや傲慢さに気づき、優しさというものを知ることになるのだから)その男をなぐさめ元気づけ、いかにして治療の痛みを耐えればよいか、種々のアドバイスを試みることにした。

 

「昔の戦士は敵陣に突っ込むとき、恋人や、ひそかに思っている人の名を一心不乱に念じることで恐怖心を振り払ったものさ。そんなひとはひとりもいないのかい」。とか「つらい治療を耐えた自分へのご褒美として、何か豪華なプレゼントをいまから準備するといい。そうだ、どこか未知の土地への旅行とかいいんじゃないか。新たな視覚による新たな発見、新たな喜びが得られること、間違いなし」。

 

あるいは「何かやりかけのことや、やり残しているようなことは?」はては「こいつはどうしても許せんというような奴はいないか。目が見えなくなると返り討ちにあって悲惨だぞ」さらには「毎日あいさつをかわす野良猫がどこかにいるんじゃないか。はやく退院しないと、さびしさで死んじゃうぞ」。とうとう、ひとりの人が声をひそめてこんなことを言った「いい宗教を紹介してあげようか••••

 

むかし中東に秘密の暗殺集団があった。団員は教祖によって、目がチカチカするような刺激の強い快樂に浸りきりにされていた。いざ指令を受けるや何の疑問も躊躇もなく喜んで実行にあたったという。その宗教の流れをくむ宗派だ。ここをちょっと抜け出して集会に参加してごらん。数回で効果てきめん。この世の不満や痛みなど忘れ去り、頭がくらくらするような至福を味わえることができるよ」。

 

われわれの親切は徒労に終わった。誰かのことを想うことにも子猫にも、さらには宗教にさえも生きる縁(よすが)を見いだせないような人間にどんな救いの手があろう。そんな人生とはなんなのだ。われわれ大部屋一同は、かれが拷問とやらに連行されている間を見計らい、おおいに議論した。優しいわれわれは結論した「かれの望みにそったお助けをするのが、真の優しさであろう」。

 

ある夜の、世の中に巣食う頑強な不満や痛みさえも眠りに落ちてしまうような深夜、われわれは綿密な計画と厳重な警戒のもと、その男をこっそりと(その男にも気づかれないようにして)病院から運び出した。そしてどんな夜のどんな深夜よりも深い、いりくんだ大都会の暗闇の底に放置してあげた。そのうずくまった姿勢をいつまでも保てるように、しっかりと暗闇の底に固定させて。

 

われわれは、みずからのなした優しさにおおいに満足して帰還した。それから、今後はぐっすりと朝まで眠れることに喜び、それぞれのべッドへはいる準備に取りかかった。その時ひとりの男が口をひらいた「しまった!かれに一番大事なことを聞くのを忘れていたよ••••もし目が見えなくなったら、あなたの大好きな夕暮れどきの天空を見ることができなくなってしまうが、それでもいいのかい、と。

 

••••というのも、夕暮れどきに窓の外ををじっとながめているかれに、あるとき声をかけてみた。すると本当にうっとりとした表情でこう応えてきたのだ••••雲と雲のあいだから斜めに差し込んでくる光の照り返しで、天空の一角が沸き立つ銀色のしぶきのように輝いている、その様子をじっと見ていると、こことは異なる世界がどこかにあるんじゃないかという思いにとらわれ、とてもしあわせな気分になってしまうのです」。

 

(網膜の治療をうけたことがある知人がいる。まぶたと頬骨のあいだ辺りに連日、注射針を差し込むのだが、なかなかの痛みをともなう、と言っていた)

 

 

 

 

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ふるい西部劇におけるリー•マーヴィンの悪党ぶりは、とくにランドルフ•スコットと組んだときのそれは最高だ。いたるところで主役を張っているL•スコットはいつも人のよい笑みをうかべ突っ立っている。どの作品であれL•スコットはL•スコットなのだ。だからかれを際立たせるのは、かれとからむ奴である。そんな奴にぴったりなのがリー•マーヴィンなのです。

 

無法者を率いるL•スコットとかれの手下のひとりであるリー•マーヴィン。だがリー•マーヴィンは従順な子分ではない。自分の腕を過信していて、他人にあれこれ指示されるのが大嫌い。事あるごとにボスに突っかかり反抗的だ。だがボスに詰められると不満顔して引きさがる。このあたりの虚勢、へたれ具合がいいのです。相手をなめ回す爬虫類の眼差し。よだれを垂らしっぱなしの獣、のような口もと。

 

トリガーハッピーな野郎で、少しでも気に食わない相手は即射殺。女性を見れば、その目に情欲の炎をともして、ねちねちとからみつき暴力もじさないいやらしさ。まあこれぐらいの下劣漢でないと、正義漢づらして澄ましこんでいるL•スコットを怒らせることはできないのです。ある作品では、とうとう殴り合いに。が素直に負けを認められないのがリー•マーヴィン。

 

屈辱に顔をゆがめL•スコットの背にむけて銃を抜く(すぐに仲間のひとりによって射殺されるのだが)、そのときの獣じみた、いやらしさ満点の表情は天下一品でしょう。で、話はいよいよ1956年の『七人の無頼漢』です。元保安官のランドルフ•スコットは、(行きがかり上)自分の妻を殺害した7人の無頼漢どもに復讐しようと、かれらを追跡の途上である(✳)。

 

そこへ登場するのが、われらがリー•マーヴィンであります。このリー•マーヴィンはもはや、すぐにかっとなりイキガリまくるかつてのチンピラ悪党ではありません。思慮と落ち着きをもった凄腕のアウトロウーへと変貌をとげているのです。むやみにL•スコットに楯(たて)突くような、まねはいたしません。それどころか諭(さと)すがごとき口調で、しずかに圧をかけてくるのです。

 

「おれは無頼漢どもが強奪した2万ドルがほしいだけです。ただ保安官、あなたが奴らを始末したあと、どうしてもその2万ドルを元の持ち主に返却するというのなら、仕方がない、あなたと決着をつけるしかありません」と。この台詞には自分の腕に確たる自信をもつにいたった男の余裕というものが感じられます。映画の途中に、誰に見せるともなく、かれがみごとなエアー抜き射ちを見せる場面がある。

 

わが腕の確かさに満足して悦に入るその表情のなんと晴れやかなこと。こっちまでスカッとした気分になり、思わず「いよっ!決まったね、大将」と声をかけたくなります。さて、このふたり、過去に何か因縁めいたものがあるらしい。リー•マーヴィンは元保安官に二度ほど逮捕されたことが••••らしい、さらにふたりは女性をめぐって深刻なトラブルを••••らしい。

 

L•スコットのまえで、同席する若夫婦(妻は元保安官に好意を抱いている)にむかって自分の過去を謎めいた口調で話しだすリー•マーヴィン。どう対応すべきかわからず徐々に不安にかられてゆく人妻。女性の困惑した表情に快感を覚えるにしても(相変わらずのサディストなのだ)、かつてのように粗野な暴力的なやり方ではなく、いまや、心理的に追い詰め、その精神に揺さぶりをかけるというやり方なのです。

 

なかなか味な手法を身につけた粋な悪党になっているではありませんか。ひろがる不穏な空気。不快感に耐えられなくなったL•スコットは怒りを爆発させる。だがリー•マーヴィンは殴り倒されても、以前のように逆上などいたしません。その場は、おとなしく身を引き、こっそりと無頼漢どもに接触。それから元保安官の動きを吹き込み、先手を打つようにかれらを焚きつけるのです。

 

双方が銃撃戦をはじめるや、不意をつき無頼漢どもをつぎつきと撃ち殺してゆく。仕上げに、自分の手下も平然と始末してしまった。これで2万ドルをひとり占めだ。いや最後の大一番がひかえています。そうランドルフ•スコットです。このガチガチの正義漢がだまって許してくれるはずがありません。リー•マーヴィンが、無頼漢どもから横取りした強奪金2万ドルを持ち逃げするのを。

 

直射日光が照りつける石ころだらけの、すべてが乾ききっただだっ広い大地。そのど真ん中にリー•マーヴィンが臨戦態勢をとって構えている。足元には2万ドルの金庫箱。カメラが切りかわると、ライフルを杖がわりのL•スコットが脚をひきづりながら画面にはいってくる。無頼漢どもとの銃撃戦を無傷で生き延びることは難しかったのだ。

 

L•スコットの後方には異様なかたちをした巨石の群れ。それらがびっしりと、くっつき連なり、画面いっぱいに断崖をなして切り立っている。カメラがふたたびリー•マーヴィンをとらえ、かれは完全な自信と余裕のうちに、しづかに宣戦布告をします「保安官、準備をしてください。決着のときです」。一秒、二秒、••••かれの両の手が、腰に吊るした二丁の拳銃にすっと動いた、その瞬間、

 

銃声一発。苦痛にゆがむリー•マーヴィンの顔。なんとかこらえようとするが、こらえきれず、身をよじり大地に崩れ落ちるリー•マーヴィン。遠のく意識にもかかわらず、金庫箱の錠前をつかみ取ろうとする執念の手、その手の大写し(一瞬しっかりとつかむも、すぐに力が抜け大地にずり落ちてしまった)。

 

ライフルに身を預け、拳銃を片手に立っている疲労困憊の元保安官。

 

(✳)映画がはじまるや、その冒頭で元保安官は7人の無頼漢のうちのふたりを早々と仕留めてしまう(リー•マーヴィンの登場はそれからかなりの後である)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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「友だちをひとりもっていれば、おまえはリッチだーーおやじがよく言っていたものさ。おれには、おまえという友だちがいる。だからおれはリッチだ」。ちょっとまえに見たふるい西部劇(DVD)のなかで、主人公が相棒に言う。かっこいい台詞だね。西部劇における友情についておしゃべりしてみたくなった。

 

そう思ったのですが、一週間たっても話がまとまりません。これはまいった。そこで本日は「DVD視聴ひかえ」(あとで思い出せるように、見た直後にさっと書き置いたメモ)から、いくつかをそのまま抜書きしてお茶を濁すことにしよう。✴以下は現時点でのコメント。

 

⚫『四人姉妹』(1953)おおロンダ•フレミング主演!これは見ないといけないだろう••••ああ、せっかくのロンダお姉さまが••••ルイス•R•フォスター監督。(✳めったにネット検索をしないわたしが思わず調べてしまった気高き美貌のロンダ嬢。その美貌もこの作品では台なしさ。内容もすでに思い出せないよ)

 

⚫『ウィンチェスター銃 ' 73』(1950)これぞ娯楽西部劇だ。高級感ある西部劇ではない。それがいい。誰でも気軽に買える幕の内弁当みたいなものだ。でもひとつひとつのおかずはしっかりとおいしい。西部劇に必要な要素はすべてある。まあ、ないのは酒場の色っぽい踊り子ぐらいか。

 

いやらしさ満点の悪党、ウェコ•ジョニー•ディーンが素晴らしい。こすっからい卑劣漢。ヒロインのローラのまえで、その夫をいじめ、なぶり殺す。かと思うと、かなわない相手とみるや、卑屈な笑いを浮かべ、あっさりと譲歩する。そのうち隙(すき)をみてやっつけるさ、と強がって。

 

酒場で主人公に痛めつけられ、外に投げ出されたウェコ。振り返えりざまに銃を抜こうとするも、いちはやく主人公の拳銃が火を吹いた(ローラの忠告、ウェコの左手の動きに注意して、が功を奏したのだ)。身をよじらせながら、中途半端に抜いた拳銃でむなしく地面に向けて2発撃ち込み、そのまま崩れ落ちるウェコ。この映画のなかで最高にしびれる場面だ。

 

クライマックスの岩場における男ふたりの、上からと下からとのライフルでの撃ち合い(両者ともライフルの名手で、なかなかスリリングである)よりも、このウェコ最期の場面のほうがたまらないよ、わたしは。ウェコの、語尾を上ずらせながらの口調は一度聞くと忘れられない。それに人を小馬鹿にしたような、少し下顎(あご)がでた顔つき。一度みたら忘れられない。

 

演じているのはダン•デュリエ。現代もので二本ほど見た。西部劇ではほかに見たことがない。主人公に扮するジェームズ•スチュワート、かれはどの西部劇をみても、何か思いつめたような、怒ったような顔付きだな。かれの相棒ハイ•スペードがかっこいい。別段これといった活躍はしない。口数も少ない。主人公のわきにいて、いつも静かに人のよさそうな笑みを浮かべているだけ。

 

だが、その落ち着いた物腰が、やるときゃやるぜ、といった頼りがい抜群の雰囲気をかもし出しているのだ。主人公がかれに言う「おやじがよく言ったものさ。友人がひとりいればリッチだ、って。おれにはおまえがいる。だからおれはリッチだ」。いいなあ、リッチとはそういうことなのね。ハイ•スペードを演じているのはミラード・ミッチェル。もの柔らかな渋み、というやつだ。

 

ちょっと蓮っ葉(はすっぱ)な感じはあるが、じつは情にあつく、しっかりもののヒロイン、ローラはシェリー•ウィンタース。も、いい感じ。貴重なウィンチェスター銃73がつぎつぎと持ち主をかえながら、最後はその銃をもつにふさわしい人間(主人公リン)に落ち着くように、流されるまま男をわたり歩くローラも運命の男、主人公リンとむすばれハッピーエンド。よかった。

 

この映画、西部の男にとってとても大事な銃と女性をめぐる(そして相棒についての)物語なのです。何度でも見たくなる『ウィンチェスター銃 '73』、この西部劇一発でアンソニー•マン(監督)の名を覚えてしまいました。

 

⚫『Tメン』(1947)アンソニー•マンだ!現代もの。西部劇よりもドライで切り詰められた感覚。全編を通して緊張の糸がゆるまない。構図やカメラの動きにひと手間かけているはずなのだが、そんなことにまったく気づいている暇がない。ストーリーそのものに没頭させられてしまった。デトロイトで完璧に悪党に変身したあと、主人公の捜査官はロスにある偽札づくりのアジトに潜入することに。

 

人情味の要素をまったく欠いた非情な、スリルとサスペンスの連続のなかにあって、唯一人間らしさを見せるのが「策士」と呼ばれる男。哀願、駆け引き、自尊心といった人間臭ぷんぷんで、主人公にいやらしくすり寄ってくる(主人公に弱みを握られてしまったのだ)。しまいには裏切り者として仲間の殺し屋によって抹殺されてしまう。この、サウナ内における殺害シーンの緊迫感がすごい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

8

気持ちのいい昼下がりの公園をぶらついていると、何やらぶつぶつと不平不満をもらす声が聞こえてきた。振り返ると台の上に銅像がたっている。ペンキを塗ったばかりらしく、陽の光を浴びて、どうだと言わんばかりに目立っている。しばらく耳を傾けてみた。

 

「いいご身分だこと。周囲の目などまったく気にせず、日がな一日、空を見上げて生きていけるなんて」。銅像の視線をたどると、ひとりの男がベンチで寝っ転がっている。それは、かれの安楽気分(何もかも放りだし、何もかもぬぎすてて)がみごとにつたわってくる、無防備なまでにリラックスした姿であった。

 

「あたしなんか決められたポーズ以外の動きをするのは御法度。おまけにこの重い衣服。そんな状態で、ゆきかう人びとの視線を四六時中浴びて微動だにせず立ちつづける。とんでもないお仕事よ。それでも、このところはわりと自由にできていたわ。というのも、ここに設置され、ずいぶんと年月がたったのでペンキの剥(は)げが激しくなってきた。

 

「そのうえ、あっちこっちに鳥の糞までくっついて。そんな薄汚れた銅像をわざわざ立ち止まって鑑賞する人などいやしないわ。そうなりゃ周囲の目など気にする必要があるかしら。疲れてくれば重心をかけている足をいれかえる。暑いときは胸ぐらから手を突っ込んで、わきの下の汗をふく。もう自由気まま、なんの気がねもなく、やりたい放題。

 

「開放的な気分のときなんか頬紅ぬって、スキップだってしちゃうわよ。そうそう、いつも決まった時間に散歩する老夫婦の会話に一度だけ、ひやりとしたことがあったわ。

ーーあれ、右手じゃなかったかい、いつも伸ばしているのは。

ーーなにをボケているの、左手ですよ。それより、くちびるに色なんてついてたかしら。

ーー銅像に口紅とは、たしかに前衛的だな。

 

「でもそんな自由なときも、とうとう終わってしまった。今朝、ペンキ屋が突然やってきて、あたしを頭のてっぺんから爪先までリニューアルしてしまった。ああ、恥ずかしいったらありゃしないわ。どう、この安っぽいテカテカとした光沢。ペンキ塗りたての銅像みたいにみっともない、とはまさしく、このあたしのことね。

 

「ゆく人ゆく人、わざわざ足を止めてじっくりと眺めまわす。それから、いつぱしの批評家ぶって口からでまかせのコメントを気がすむまで、浴びせかける。言うにこと欠いて

ーー公園に設置する銅像にしては、ちょっと胸元があきすぎじゃありません。

などと風紀委員みたいなことを言うやつまで。

 

「ああ、何がリニューアルよ、アンチ•エイジングなんてどうだっていいわ。こんな重い服から開放され、何もかもぬぎすて、身も心もかるくなりたいわ。ベンチに寝っ転がり、吸い込まれそうになるぐらい、真っ青な空をただただ眺めていたいわ。天空のあのあたりでなら、ほんとうのリニューアルができそうね」。

 

銅像の、この切実な嘆き節に突如、わたしは悟(さと)りを得た。悟りとは•••••つまり(平熱の人に言わせると•••••熱っぽい脳髄にふと浮かんだ思いつきを、思いっきり気取った言葉づかいで述べること、でしょう?)目がチカチカして、いつも見なれている景色や、なじみ深い考えが無数のピースとなってばらばらに解体し、一瞬の間、いつもの絵とは全くちがった別の絵柄のジグソーパズルが完成すること、なのだ。

 

ベンチで寝っ転がっている男は、何もかもぬぎすて(衣服のことじゃない)ひたすら耳を傾けているのだ。天空からの呼びかけ、進軍ラッパの音に。聴こえた者は神々の聖なる戦いにつらなるため、天空に召喚され青空のどこかの一点に吸い込まれてしまう。かれはその時を待ちつづけているのだ。かれにはすでに見えているのかもしれない。つぎつぎと湧き上がってくる雲の塊が、天翔ける古代戦車の行列に。

 

古代の説話集にでてくるある女性(いつも素っ裸で暮らしていた彼女のこころは、 裸のからだ以上に素っ裸だった)は毎日、野原に薬草をつんでいたが、あるとき突如として天高く舞い上がり、青空に吸い込まれてしまった。まことに「風流な、おなご」である。とうとう青空に取り憑(つ)かれてしまった銅像が「風流な、おなご」となって青空に吸い込まれてしまうことが、ないとは言えまい。

 

ある思いが一瞬でも心に浮かべば、ひとは、もうその思いから完全に逃れることはできない。その思いは、どんなかたちであれ、そのひとが気づこうが気づかまいが、かならずや成就してしまう。そのひとが気づかないとすれば、思いもかけないかたちをとって成就したからなのだ。だからどんな状態にあったとしても、ひとは(思いもかけないかたちで)素っ裸になれるし、素っ裸になったこころは、どんなに重い着衣だろうが、するりと抜け出してしまう。

 

わたしはこう願いながら公園をあとにしたーーその時まで、あの銅像が風邪や熱中症などに負けることなく、すこし楽な気持ちで、たちつづけられますように。

 

 

 

 

 

 

 

7

日記。3月20日水曜(休日出勤)。やっと5日ぶりに通便した。若い頃は便秘によく苦しめられたものだが(この言い方はおかしいよね。自分の生活が原因なわけだから、自分で自分を苦しめる、と言わないとね)この年齢になってからは久しぶりのことだ。プチ断食を敢行。昨日は野菜ジュースのみ。今朝も野菜ジュースのみ。朝から、からだの重心がなくなった感じ。空腹感はないが、頭のなかに雲が浮かんできそう。

 

仕事を中断し、コンビニでサンドイッチと生乳を。直後に通便。かなり踏ん張った(首の裏から背筋にかけてひきつる程に)。健康的な便がでた。オー!イエー!って感じだ。まあ『桃尻娘』の竹田かほり(のほうだったと思うが)ほどではないが。心配していた生理がやっときて、ベッドのうえで飛びあがり「やったー!」(ここでストップモーションになり幕。これは見た劇場も覚えているぞ。前世紀の話)。

 

日記から、おしゃべりへ。プルーストは便秘から開放された瞬間を、めんどりが卵を産み落としたときの快感だ、と言っていなかったか。抜群のイメージだね(卵で出産したい、と言った女優さんは誰でしたっけ)。体験したことのない快感を比喩にもちいていいの?と突っ込みたくなるが、なにせ相手がプルーストだ。このレベルになると、めんどりだった時代があったとしても不思議じゃない、と妙に納得してしまう(いや、それはない)。

 

この人(『失われた時を求めて』のマルセルプ•ルースト)ときたら快楽の大家だからな。苦痛、不快、恥辱、拷問、倒錯がもたらす快楽にかんして、一流の味わい手である。また人生のあらゆる分野における通人なのだ。そして感覚的想像力こそはどんな分野であれ、通人の最大の武器であろう。そうであれば、めんどりが産卵のときに味わう力み、けいれん、しびれといった、生命がふるえるような瞬間の快感を味わいつくす楽しみを、かれは知っていたのかもしれない。

 

おしゃべりから、おしゃべりへ。あるいは(ある大詩人が断言しているのだが)「ほんものの想像力をもつ人はどんな他人の魂のなかにでもすっと入っていくことができる。その人にとって、他人の魂は空席だ」とすれば、プルーストほどの者は、人間どころか、めんどりの魂と一体化することなど、なんでもないことなのだろう。たが、わたしの貧弱な想像力によれば、つぎのようなことが真実だと思えるのだ。

 

実際にめんどりの格好をして(お遊戯会の子供のように羽をつけ、顔にもそれなりのメイクをほどこし)固くゆでた卵を2、3個そのまま飲み込んでみる。それからしゃがみ込み、庭のなかをコケ、コケと鳴きながら走りまわる。そのうち激しい腹痛のうちに、ポロリとゆで卵を排出してしまった••••。あの小説を読めばこんな空想をしたくなるというものだ(どんな読み方だよ)。

 

あの小説は、学者や研究者どもによってあらゆる美や、さまざまや性や、表現という問題などにかんし、よってたかって声高にめった切りにされている。また、ペダンチックな誘いに富んでいて、いたるところで引用、引用と引き回されている。ちょっと前には、旅についての有名な一節が車内広告にでていた。『トランスポーター』では、フラン人の警視がジェイソン・ステイサムに紅茶をすすめながら超有名な一節を口にする。

 

また、一日中ベッドで横になって執筆したというプルーストのエピソードを、どれかの小説のなかの人物にしゃべらせているのはチャンドラーだ(映画版にもあったような)。わたしがいちばん秀逸だと思った引用は小説『トリプルX』だ。そこに登場するポルノショップの黒人店員が、これを読んでいる。この組み合わせは、この小説のあるべき位置のひとつを、ああそうか、と分からせてくれる。

 

この小説、わたしの理解では吸血鬼の愛読書ということになっている。わたしがこれを読もうと思ったきっかけが吸血鬼なのだ。ある映画(✳)の冒頭、夜が明けるか、まだ明けないかという寒々とした街の大通り。一人っ子ひとりいないアスファルトをふたりの男が怪しげな足取りでやってくる。会話からふたりが吸血鬼であることが分かる。たらふく血を吸い(それで足が、ふらついている)、これから帰って棺桶のベッドに入ろうというのだ。

 

ひとりが言っている「永いこと吸血鬼をやっていると、眠れない夜をどう過ごすか頭を悩ますものだ。最近の50年はプルーストの『失われた時を求めて』にはまってるよ」。ふたりの吸血鬼にすこしづつカメラが寄っていく。おお、しゃべっているのはクリストファー•ウォーケン!そうかC•ウォーケン、吸血鬼だったのか。やや小首をかしげ、半開きの口(得体のしれぬ気体を吐き出しているような)、人工の目そっくりに異様なかがやきの眼差し、病的な繊細さ。

 

最初に『グリニッジビレッジの青春』をみたときから、ただ者じゃないと感じていたが、この男、吸血鬼だったのか。100%納得。かれの吸血鬼、説得力100%。このシーンで決まりです。もう『失われた〜』を読むしかないよ。C•ウォーケン以外の誰が読んでいても、そうはならなかったな(クリストファー・リーには失礼だが。ヴァンパイアといえばこの人だ)。吸血鬼のC•ウォーケンがはまった小説となれば、これは読むしかないだろう?だから吸血鬼になったつもりで読むと、格別さ。

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(✳)いつも記憶のみを頼りにおしゃべりをしているため、引用や記述がはなはだ不正確となっています。さすがに、これは今ネット検索を入れてみた。『アディクション吸血の宴』と思われる。1994年、アベルフェラーラ監督。見た劇場は覚えている。同時上映は(これは覚えている)『アンディー•ウォーホールを撃った女』だった。題名あってるか?前世紀の話。

 

追記⬛めんどりの話、いまふと考えたが、苦労した挙げ句、ひとつの作品を作り出した時の快感の比喩だったのか?あの膨大な小説から、その部分を探し出すには、どれだけの時間が•••••

 

 

6②

→[6①から]わたしが出会いたいのは、広大な西部の土地から土地をめぐり渡る吟遊詩人なのです。そしてかれらにこそ、おねだりするのです。おとなしく安住する人びとが想像もできない、この世のさまざまなめぐり合わせを、おもしろおかしく、うたって聞かせてください、と。

 

また登場のさいは必ずロバにまたがり、のんびりとやってきてください、と。ロバのスローなテンポ、ノンシャランな歩み、これらは(誰もがすぐにかっとなり、やることなすことすべてが荒ぶれる西部劇にあって)吟遊詩人の反骨的ユーモアであり、吟遊詩人がかかげる独立独歩の旗印なのです。

 

『シエラ』(1950)にでてくるロンサムはまぎれもない放浪の歌うたいだ。かれが長旅からかえってくると、子供たちがすぐにかけよってきて、おねだりする。かれが披露する、お土産の新作「クジラのスージー」に子供たちは大喜び。こんなことは、定住のなんちゃってなどには到底できっこない芸当でしょう•••••あ?この甘くすてきな歌声は、どこかで•••••あ〜、なんと、『拳銃往来』の宿屋のおやじ、その人では。

 

一念発起(どんな心境の変化が•••••)知らぬ間に放浪稼業に身を投じていたとは、あのおやじ、とんだブラボー野郎だったのだ。かつての面影は微塵(みじん)もない。ありとあらゆる危難と幸運を味わってきた吟遊詩人の顔つきに変わっている。笑顔は、かつての皮肉めいた冷笑とはおおちがい、あけっぴろげな親しみと優しさとにあふれている。子供たちに好かれるはずだ。人間不信の青年(山奥に隠れ住んでいる)に信頼されるはずだ。

 

そして、ほんものの吟遊詩人となった宿屋のおやじ、すなわちロンサムは、もちろんロバにまたがっている。ロバのサラは、もちろんどんな急ぎの時にも道草を食ったりする。それはサラからロンサムへの忠告なのだろう「いつだって気ままに」あれ、という。またかれは親しき人のためとなれば、歌うカウボーイなみに、ためらわず行動に出るのだ。拳銃はぶら下げていないが、それ以上に強烈な武器をたずさえているのだから。

 

例の人間不信の青年が捕らえられた。ロンサムはギターをかかえ留置所に乗り込んだ。見張りの保安官補は晩飯の最中だ。ロンサムが子守唄がわりに、その魅惑の歌声を披露する。

🎵保安官補は晩飯をいっぱい食ってご満足、まぶたをとじて、いい気分〜🎵いい気分で落ちてゆく、いい気分で夢のなか、漂いながら迷い込む、漂いながら夢のなか〜🎵一日が終わり、もうすでに夢のなか〜

 

極上のクリームのような甘さ伸びやかさ。しびれます。どんなに勤務熱心な見張り番だって眠りこけてなぜ悪い(しかも満腹状態だ)。保安官補はこっくり、こっくり。ロンサムはそっと鍵を盗みとるのでした。なんとも強力な武器ではないか、吟遊詩人の、のどは。歌うカウボーイでは、こうは、うまくはいきません。自慢の拳銃をぶっ放して流血騒動を引き起こすのが落ち。それに比べ吟遊詩人の救出劇のなんとスマートなこと。

 

その歌声によって人を意のままにあやつり、深い眠りの淵に誘い込むとは•••••ほんものの吟遊詩人とはまた、恐るべき動物磁気の卓越した遣(つか)い手でもあったのです。ああ放浪に放浪をかさねる西部の吟遊詩人よ、おねがいします。その甘い歌声と、じっさいに見聞きした珍奇な物語をとおして、しびれさせてください。西部の荒野におとらず苦労おおい現代の浮世をさまよい歩くわたしの心を。

 

そして無邪気な子供の世界に迷い込ませてください(疲れることなく、いつまても飛びはねていたいのだ)。さあギターを奏で「クジラのスージー」を自慢の歌声でうたってください。

🎵サンフランシスコにスージーという名の、クジラの子供が住んでいた

🎵食べるのが大好きなスージー、仔牛もクマも、✳✳おばさんまでぺろりんこ

🎵クジラのスージー、チョコにケーキも大好きさ

    

(歌詞、せりふは、すべて記憶による引用のため、はなはだ不正確なものです)