DVD視聴控え

ふるい娯楽西部劇についてのおしゃべり

控え 14

相手を撃ち倒したあと、銃口にふっと息を吹きかける。この仕草をわたしはまだ西部劇のなかでみたことがない。そんな絵が浮かんでくるということは、どこかで見たことがあるのだろう。銃をくるくる回すのと同様、単にカッコつけているだけなのか。それとも何か実用的な効用があるのか。ともかくそんな仕草は普通の場面にはそぐわない。ギャグ的な効用しか期待できそうもないポーズである。

 

マカロニ•ウエスタンでならありそうだ(マカロニ•ウエスタンというジャンルが、ある意味ギャグみたいなものだ)。シリアスな場面で銃口に息を吹きかけて、その仕草がギャグにならないのは、卑劣漢を演じていた頃のリー・マービンぐらいのものだろう。何をやるにもいちいちカッコつけないと気がすまない自意識過剰な野郎だからな。

 

自意識過剰というならば、無慈悲なやり方でエリシャ•クック•ジュニアを射殺したジャック・パランス、かれならば銃口に息を吹きかけて、それはそれは絵になっていただろう(『シェーン』)。では、この仕草をエロール•フリンがやるとどうなる?どんな危機にあっても余裕しゃくしゃくの色男だ。いつものにやけた(でも決して嫌みにならないのはさすが)笑みをうかべ、野次馬や映画の視聴者にむかって

 

ウィンクを送りながらふ〜っ、とやるのかな? ある夜かれは、酒場で言いがかりをつけてきた悪漢と一対一の決闘をやることになった。悪漢にはどんなことをしてもエロール•フリンを倒さなければならない理由があった。悪漢を先にふたりが酒場から出てきた。すかさず、待ち構えていた悪漢の手下が銃をぬく。だが状況を注視していたフリンの親友が、みごとにフリンをカバーする。

 

「ありがとう、チャーリー」とエロール•フリンがいったその時、振り向きざまの悪漢が二丁拳銃を引き抜いた。と同時に銃声一発••••悪漢の動きが止まり左手から銃が落ちる。屈辱と怒りで顔がゆがんでいる。静かにフリンの声「どうした、レイフ?」。ここでカメラが下がると画面にフリンの後ろ姿がはいる。かれの肩ごしに身を震わせ仁王立ちのレイフ。画面にフリンがくわえているシガーの煙が広がってゆく。

 

無言のまま身をひるがえし歩き去るレイフ。数歩あるいたところで足がもつれる。右手に持ったままだった銃を取り落とした。上体がよじれると、そのまま冷えた歩道に倒れ込む。カメラが正面からとらえたエロール•フリンのこの上ない真剣な顔。得意のおちゃらけた笑みは微塵もない(それでも色男さ。ちょび髭に細いシガー、ふち飾りつきチョッキ、真っ赤な大きいスカーフだ)。

 

天使が羽毛を整えるときのひそやかささながらの、そ〜っとした仕草で銃を口元に近づけると、ふっ、と吹いたか吹かないかの息を吐きかける。そして、それは銃口にではなく、銃弾の装填口にであった。パフォーマンス性が皆無の、この上なく自然な(いや、それ以上だ。つまりスーパー•クールである)身振りである。そしてフリンが友人にいう、

 

「レイフの名で✳✳に電報を打とう。計画通りうまくいった、と」。こうしてエロール•フリンと友人は✳✳が支配するサン•アントニオに乗り込んでゆく。つまり、この決闘は、西部劇『サン•アントニオ』のかなり最初の方の出来事なのだ。それにもかかわらず、ここが映画全体のなかで、もっとも緊張感のある場面である。というのもこの映画、

 

全編にわたり細かいギャグやドタバタを散りばめているのだ(語り口調は、しごくシリアスである)。それにエロール•フリンからして、いつだって、おちゃらけ万歳といったノリですからね(それで画面が下品に落ちないのは、さすが)。そんなかれがみせた、いつくしむかのように拳銃に息を吐きかける、このスーパー•クールな仕草は誰にも真似することができないカッコよさでしょう。

 

⚫【サン•アントニオ】1945年、カラー。デヴィッド•バトラー監督。

控え 13

西部劇をみるおもしろさのひとつに、娯楽場のだし物を画面越しに楽しめる、というのがある。国境の町サン•アントニオのサルーン「ベラ•ユニオン」に大都会から歌姫ジーン•スターがやってきた。幕があがり最初のだし物は踊り子たちのラインダンスだ。むき出しのお尻にメキシカン帽をぶら下げ、ぴゆっ、ぴゆっ、と小粋なお尻を突き出します。お色気の花を舞台上に咲かせる踊りに、西部の男たちは大喜び。

 

続いて出てきたのは愛嬌たっぷりのタップダンサー。完全に脱力した全身をくにゃくにゃに伸縮自在、酔っぱらった蛸のように飛びはねる。そのコミカルな演技に酔客どもは大笑い。そして、いよいよザ•ビューティージーン•スターの登場です。 「🎵サム サンデー モーニング、あなたとわたしの世界がバラ色にそまってゆくわ〜」 真っ白なドレスに身を包み、しっとりとした情感でうたい出します。

 

  アレクシス・スミス礼賛

 

客席は静まり返り(荒くれ男どもが口を開けっ放し)きき惚れる。しっとりとしていて、それでいて明るく軽快な歌唱に(音痴ということも忘れ)わたしも思わず「🎵サム サンデー〜」と口づさんでいる。いろんな作品でいろんな歌い手が、みごとな声を披露する。が「これはたまらんなぁ~」と、うなってしまったのは、ジーン•スターを演じているこのアレクシス・スミスがはじめて。彼女、本職の歌い手です。

 

そのすてきな歌声でわれわれすべて(ベラ•ユニオンの客とわたし)を夢み心地にしてしまったジーン•スターが退場すると••••彼女がつくった柔らかな世界を壊さないようにと、ゆるやかな振り付けに柔らかな歌声をのせて、男性四人組がやってきます。響かせる低音は、重低音ではなく、レース織りのような、淡く軽〜い低音だ。そして舞台の上には夢の名残のような優しさがひろがって、終幕です。

 

み終わったあとの、うれしさは、もう「ベラ•ユニオン」の舞台を実際に、まるまる一幕鑑賞したようなものでしょう。映画の後半にもう一度、ジーン•スターの歌、踊りが登場する。今度は情熱を秘めたジプシー娘といった出で立ちで、スカートを大きくゆるやかに打ち振りながら、フラメンコ風の振り付けで優雅に舞い踊るのだが••••これは中途半端な終わりを迎えてしまうことに。

 

サルーンのなかに、ストーリーを左右するキーとなる人物が不意に入ってきたのだ。映画はここから敵味方入り乱れてのながーい銃撃戦に突入する。緊迫感というよりも七転八倒のドタバタ感がいっぱい(スピード感の弱さがその一因か)のドンパチだ。この映画の山場、見どころ、といっていいでしょう。とはいえ、この西部劇『サン•アントニオ』一等の見どころといえば、

 

やはりサルーン「ベラ•ユニオン」のだし物である、お色気のラインダンス、お笑いのタップダンス、渋い男性コーラス隊、とりわけアレクシス・スミス演じるジーン•スターの情感あふれる歌と踊りなのです(わたしにとっては)。 

 

⚫【サン•アントニオ】1945年、カラー。デヴィッド•バトラー監督。主演はエロール•フリン。かれとアレクシス・スミスは『モンタナ』[控え9]のコンビ。なおこの[控え13]は[控え12]の2NDヴァージョン。

 

 

 

 

 

 

控え 12

大掛かりな牛泥棒の黒幕であり、娯楽場の悪徳経営者でもあるロイ。かれを追い詰めるために再びサン•アントニオに戻ってきてたクレイ•ハーディン(ロイの暴虐非道から逃れメキシコに身を隠していた)。クレイとロイとの対決、そしてクレイと娯楽場の歌姫ジーン•スターとのロマンスを描くこの『サン•アントニオ』、その見どころは••••

 

歌姫ジーン•スターを演じるアレクシス・スミス嬢の舞台姿でしょう。娯楽西部劇を見る楽しみのひとつに娯楽場(サルーン)の演し物がある。歌や踊り、コメディタッチのタップダンスといったもの。踊りはラインダンスというのかカンカンというのか。この映画の娯楽場「ベラ•ユニオン」のカンカン踊りはお色気たっぷり(しかもお笑い寄り)の、しろものである。

 

その気取らないところが西部のカンカンなのだ。洗練されていない粗っぽさが飲んだくれのカウボーイどもに大ウケだ。踊り子たちはお尻に大きなメキシカン帽をぶら下げ、ぴゆっ、ぴゆっと、突き出したお尻を小粋にスイングさせて、田舎の観客どもを熱狂させる。踊り子たちにつづいて、愛嬌たっぷりのタップダンサーが舞台上を行ったり来たり。

 

かと思うと、膝とひじの関節をはずし(たかのように)、酔っぱらったタコさながら手足を放りだして軽快に飛びはねる。そしてこれら前座が引き下がると、待ってました!大都会からやってきたザ•ビューティージーン•スターの登場であります。真っ白なドレスに身を包んだアレクシス・スミス嬢、骨格がしっかりしていて、たっぱもあり、堂々たるものだ。

 

🎵サム サンデー モーニング、あなたとわたしのすべてが、バラ色にそまってゆくの〜

 

彼女が歌いだしたとたん、騒いでいた酔客は静まりかえり、かれらといっしょに、わたしも息をのみ完全に彼女の歌声に引き込まれてしまいます。舞台をおり、豪華客船のようにゆったりと客席のあいだをうたいゆく彼女。ただうっとりとみつめる荒くれども。音痴にもかかわらず サム サンデー モーニング、と思わず口ずさんでしまっているわたし。

 

しっとりとしていて、それでいて気持ちがわくわくしてくるような軽快さ、明るさに富んだ彼女の歌声が、ききいるすべての人の心を優しさで包みこんでしまったのでしょうか。わたしも、娯楽場の客も、とてもハッピーな表情になっています。「テキサスの星空を見上げたことがあるかしら••••」あ〜、語りもまたグッときて、わたしの心を落着かせてくれるのです。

 

いろんな西部劇でいろんな人が素晴らしい歌声をきかせてくれる。だが「いや〜、たまらないな」と、きき惚れてしまったのは、このアレクシス・スミス嬢がはじめて(この人、本職です)。彼女がうたう「サム サンデー モーニング」をしっかりと堪能させてもらいました。さて彼女に続いて出てくるのは、そろいのハットに燕尾服の男性四人のコーラス隊。

 

🎵サム サンデー モーニング、としぶ~い低音を響かせる。これが重低音ではなく、かすみのような、レースのような、淡いかる~い低音である。ゆったりとした振り付けの動きで、すてきにハモるのだ。これはもう、実際に娯楽場「ベラ•ユニオン」の舞台をまるまる一幕楽しんだ、そんな気分になってしまってもいいでしょう?

 

後半にもう一度アレクシス・スミス嬢の歌と踊りが楽しめます。今度は情熱を秘めたジプシー娘のようないでたちで、スカートを大きな鳥の飛翔のように、ゆるやかな弧を描いて打ち振り、フラメンコ風の振り付けで踊ります。だがこの舞台は突発的な出来事のために中断してしまう。クレイとロイの闘いに決着をつける鍵となる人物が不意に娯楽場に入ってきたのだ••••

 

ここから映画は、クレイ側とロイ側とが入り乱れての、七転八倒の銃撃戦に突入。七転八倒というのも、ドタバタ騒ぎの一歩手前の大混乱なのだ(スピード感がないのも、そうみえる要因のひとつかも)。やたらと人の上に机が落ちてきます。この銃撃戦もこの映画の見どころです。でもやはり、一等の見どころはアレクシス・スミス嬢の舞台姿なのです。

 

⚫【サン・アントニオ】1945年、カラー。デヴィッド・バトラー監督。主演のエロール・フリンとアレクシス・スミスのふたりは『モンタナ』[控え9]の主演コンビ。

 

 

 

 

 

 

 

 

控え 11

アリゾナの勇者』[控え10]への追記、ひとつふたつ。

 

たいして気にもとめてなかったが、ひと声きいた瞬間、ああこの人だったのかと急に注視しだした人がエドガー・ブキャナンです。この声、特徴ありすぎでしょう。何かの役のためにつくった演技上の声みたい。のどをしめあげられてのいるかのやうな、ほそーい隙間からもれでてくるやうな、懸命に押し出すような苦しげなその声。

 

その話し方は何か秘密めいたものを感じさせ、とんでもない裏があるにちがいないと思えてくるのだ。ある作品では、怪しげな歯医者だな、とみていたら、やっぱりすべての悪の黒幕がかれだった。そんな役がぴったりのエドガー・ブキャナンである。今回も何かあるのか、と期待していたのだが、至極まっとうな保安官だった••••おしい!(✳)

 

(なおこの保安官はシェリフ。主人公マットは執行官と字幕にでるが、USマーシャルと呼ぱれている。連邦保安官ですかね)。動作だけは、やる気のなさそうな、かったるいぜ、といったいつもの動き。まあ、自分の身体を自分で動かすのもやっとこさという、あの樽ぶとりですから。声一発で、おっ、と思った人がもうひとり。

 

ちよっと独特な味の表情なので顔だけは覚えていた。いい機会なので名前も覚えることにしよう。ヴィクター•ジョリー。家庭のよき亭主の裏で悪党団を率いる残酷なボスに扮しているのをみたことがある。残酷と恐れられているわりには、たいしたことないな、この親父、と思ったものだが、しっかりと印象に残っているのだから、たいした男だよ。

 

細面で優しげな目つき、ハの字のまゆげの困り顔、よき亭主にはぴったりだが残酷な悪党には迫力不足でした。でも目の奥に何か屈折したもの、押し隠した暗黒のようなものを感じさせるなんて、やはりたいした男なのだ。この『アリゾナの勇者』ではジラード兄弟の長兄フランク。これは虚勢をはらず、どっしりと構えていてちょっと頭が切れそう。

 

まわりの目を欺くために霊柩車で護送されるフランク、兄弟によって救出されると、警護の主人公をなかに閉じ込めライフルを滅多撃ち。これは迫力満点の残酷ぶりです。また馬四頭の足元で主人公と殴り合い、これは危ない。でも馬さんおとなしい••••おしい!(騒ぐ馬の間でのスタントをみたことがある)。

 

声といえば劇中、主人公の保安官マットが素晴らしい歌声を三度ほどきかせてくれる(ヴォーン・モンロー、この人プロのようだ)。幼い子供たちやヒロインに囲まれ、情感豊かにうたいあげ、あたたかな時をつくりだしています。またジラード兄弟との最後のたたかいを前にして意味深な歌を、ヒロイン相手に静かにうたいます。

 

🎵女を愛する男がいる、海を愛する男がいる、冒険を愛する男がいる〜ひとりで死ねる男に、長生きなどできはしない〜

 

⚫【アリゾナの勇者】1952、カラー。R•G•スプリングスティーン監督。(✳)ただ保安官事務所の下働きの青年にたいしては、とんでもなく威圧的な態度をとっていたな。これはだめだろう。いまならパワハラだ。

 

 

 

 

控え 10

筋書きをなぞっただけの映画だな、なんて高をくくっていたら、気がつくと画面にみいってしまっていた。役者や絵面の、かっこよさでみせる気はなかったのだ。じっくりとした語り口調の娯楽西部劇『アリゾナの勇者』です。①悪党ジラード兄弟を追いつめる執行官マットのタフなたたかい(アリゾナでもっともタフな野郎、とでもいった原題)。

 

②マットと、先住民の襲撃で夫をなくしたメリー•キンバーとのロマンス。同時進行の①②だが、②がていねいに語られる。ふつうの娯楽西部劇のラブロマンスという域をこえ、ヒューマンドラマの雰囲気さえ漂ってくるのだ。結婚生活における相互理解(思いやり)?、そのあたりに収れんしてゆきそうな話である。

 

ガキの気分のまま大人になってしまったようなわたしには難題だ。②の話は、そっとスルーすることにしよう。さて①と②の交差点にいるのが、おんな子供をまもって死んだと思われていたメリーの夫バーン•キンバー。じつは先住民の襲撃がはじまる直前に、こっそりと仲間から抜け出し逃亡、生きていたのだ。では、

 

この卑劣漢キンバーを軸に①の話を述べると••••かれは、新婚にも関わらず、通信技師としての定職に不満をもち、いつまでも一攫千金の夢を追っては、いろんなことに手をだし、ことごとく失敗していた。あきらめの悪い独りよがりの男である。前述の敵前逃亡後、ジラード兄弟と知り合ったことで悪に手を染めてしまう。

 

手づくりの受信機で保安官事務所を盗聴し、ジラード兄弟がその長兄フランクを脱獄させることに協力。また偶然傍受した鉱山事務所の通信を解読することで、悪党兄弟が銀塊を積んだ駅馬車を襲うことに加担した。もちろんでっかい分け前を条件にしてだ。(なんとも劣化した一攫千金のロマンである)。だがフランクは信義を気にするほどヤワな悪党ではなかった。

 

「殺されないこと、これがお前の分け前だ」と、キンバーを張り倒し追い出してしまう。自分のみじめさに納得がいかないキンバーは、自分の取り分を勝手に頂戴しようと、銀塊の隠し場所である馬小屋に••••その時、かれを追ってきたジラード兄弟と、兄弟を待ち伏せしていた執行官マットら追手との間で銃撃戦がはじまった。

 

激しいドンパチの末、ジラード兄弟は全滅。追手側も生き残ったのはマットと保安官✳✳✳とのふたりだけ。それをみたキンバー、悪魔にとりつかれたか••••銀塊すべてを手に入れるチャンスだ、まさかこんな形で一攫千金の夢が成就できるなんて••••かれは近くに落ちていた銃を手にすると、保安官✳✳✳の背中を撃ち抜いた。

 

しかし、そこまでだった。マットの逆襲におそれをなし銃を放り捨てると「丸腰のものを撃てやしないだろう?」。弱音を吐いてへたり込んだキンバーは、保安官殺害容疑で収監され裁判をまつ身となったのだ。これが腰をすえて生きることができなかったジコチュー男の末路である••••とはあまりにもひどい言い草でしょうか。

 

誰でも一度は、自分も何者かでありたい、という思いにとらわれる。うまくいくし、あるいはうまくいかない。間違って向こう側に足を踏みはずす、夢は劣化してもいつまでもこびりついている。人間のやることを、そんなふうに考えることができる者は、キンバーの行動を酷評することなんかできはしない。キンバーの妻メリーの思いも、そのあたりにあったのではないでしょうか。

 

メリーは、夫の生き方にいつも批判的であった。そんな彼女は、互いにいい感じになった主人公マットからプロポーズをされたとき(キンバーは死んだことになっている)即答をさけ「かれのことをどう理解すればよいのか、いまだにわからないの。かれに対し、わたしはきついことばかりを言ってきたわ」。このあと話は二転三転し、マットとメリーの別れというビターな結末に••••。

 

⚫【アリゾナの勇者】1952年、カラー。R•G•スプリングスティーン監督。(••••でもすぐにメリーは帰ってくるわ、というハッピーな見解の者がひとりいる。メリーのことが大好きなマットの幼いむすめです)。

 

 

 

 

 

控え 9

モーガン•レーンが羊の大群をつれてモンタナにやってきた。そこは、羊飼いに敵意を抱く牛飼いたちが支配する土地であった。女牧場主マリアはかつて、羊飼いとの闘争において父と兄をなくしていた。商人になりすまし巧妙な手段でマリアに接近するモーガン。マリアはすっかりモーガンのとりこに(彼女に婚約者がいて、そのかれがあくどい奴なのは、西部劇の定番だ)。

 

  色男エロール•フリン

 

モーガンに扮するのはエロール•フリン。かれが弾くギターに合わせ、いっしょに歌をうたっただけでマリアがまいってしまう程の魅力の持ち主なのでしょうか、エロール•フリンは。その後の展開が説得力を持つためにも、この点は西部劇『モンタナ』における最重要点であります。確かに思いつきません、この手の男の色香を漂わせる役者というのは。

 

「お嬢さん、わたくし女たらしをモットーにしておりますが、まだまだ未熟者です。なお一層の努力をいたしますゆえ、今後ともどうかごひいきに」なんてことをいって、まったく不自然さを感じさせない、ゆったりとした大きな色気というものがある。近年の役者(わたしが映画を見始めた頃のポール・ニューマンイーストウッドやパチーノおよびそれ以降の連中)には決してない色気だ。

 

しっとりと滑らかで、濃くがある。濃くがあるが嫌みなところが微塵もない色気だ。さて、モーガンはことば巧みにマリアから、彼女が所有する土地の一画を譲り受けた。しかしひょんなことでモーガンが羊飼いであることがバレてしまった。このときのモーガンが、またいいですね。あわてたり、言い訳をしたりしない••••お嬢さん、

 

残念なことに、わたしが羊飼いだというのは、じつは本当なのです。困りましたね••••といった感じで困惑の表情をするのだが、いっこうに困っているようには見えない。激怒するマリア。つまり(西部劇によくある)羊飼いと牛飼いの土地争いの話なのだが、このあたりからモーガンとマリアとの愛情話が一気に盛り上がり暴走しはじめます。

 

  女傑アレクシス・スミス

 

譲り受けた土地の権利をなかなか手放そうとしないモーガンだったが、パーティーの席上でマリアに懇願されたかれは、契約書を破り捨てる。「ありがとう。どうして手放す気になったの」「きみが好きだからさ」。それからモーガンはパーティーの会衆にむかって羊と牛の共存計画を語りはじめる。驚いたマリアはモーガンの頬をひっぱたき「すぐにこの土地から出ていって。

 

今後一歩でも足を踏み入れたら射殺するわ」。ここからいよいよ大詰めです。モーガンは羊の大群を町にむかって移動させる。強引に町を横切り、一旦手に入れていた放牧地へと羊を導こうというのだ。これをみたマリアの婚約者✳✳✳は、牛の大群をけしかけ羊の群を襲撃する。だがうまくいかず、逆に牛の暴走に巻き込まれて死んでしまった。

 

(これもまた娯楽西部劇の定石でしょう)羊の大群が町の大通りを埋めつくしてやってくる。仁王立ちでライフルを手に立ちはだかるマリア。がっちりとした骨格、威嚇するような眼光、とても女性とは思えないガツンとくる立ち姿、これは伝説の女戦士アマゾネスの一族なのだ。演じているのはアレクシス・スミス嬢です。

 

モーガンが、ゆっくりとマリアのほうに近づいてゆく。「止まって、撃つわよ」。歩を進めるモーガン。ライフルが火をふいた。肩を押さえて倒れるモーガンに思わず駆け寄り抱き上げると「どうして止まらなかったの?撃つといったでしょう」。にっこりと笑顔を返すモーガン。ふたりは大通りの真ん中でしっかりと抱き合うのでした••••えっ!これで万事OKってこと?

 

⚫【モンタナ】1950年、カラー。レイ・エンライト監督。ふたりで抱き合って、土地争いも円満解決ってことで、これぞ娯楽西部劇の真骨頂であります。

控え 8

幼い頃に父親を殺された主人公が(馬の烙印を唯一の手掛かりに)父親のかたきをさがして放浪する西部劇『荒野の流れ者』、とても楽しくなってしまいました。それもこれも、冒頭で幼い少年を助けるラファティ親子の人柄とその掛け合いの楽しさにすっかり、やられてしまったからなのです。

 

砂漠をゆく幌馬車。パパ、ママ、息子のチトー、三人が話をはずませています。パパの陽気な歌にチトーが突っ込みをいれる「嘘ばっかし」。元アイルランド海兵隊のパパは「嘘で大笑いができるなら、つまらん真実よりも嘘のほうがましさ」と、危険な(なかなか豪快な)意見で応じる。人生の裏表に精通した熟した大人(なかなかいないね)しか持ってはいけない見解だ。

 

かれらはたったひとりで倒れている幼い少年を見つけ、助けあげる。チトーはすぐさま持ち前の友情を全開し、少年との兄弟を宣言した。パパとママはひと言ふた言かわしただけで自分たちの息子として育てることで一致した。太っちょで包容力全開のママ、彼女のからだが蓄えているのは、脂肪なんかではなく慈愛のかたまりだったようです。

 

  戦いのとき、キッスのとき

 

(当時の西部にあっては将来の労働力の確保という側面もあるかと思うが、ここでそれを持ち出すのは娯楽西部劇にたいし失礼というものだ。ラファティ家は、なんといっても愛のファミリーなのだ)幼い少年が「それじゃ、みんなをトラブルに巻き込んでしまうよ」と遠慮をみせるとチトーがいう「アイルランド人は困難に立ち向かう人間さ。トラブルがあればいつだって戦うのだ。

 

戦っていないいないときはスペイン式でキッスのときさ。戦いのときとキッスのとき、キッスのときと戦いのとき、この繰り返しだ、ラファティ家は」(ママが情熱のスペイン女なのだ)。このパパとこのママにしてこの息子ありです、10歳ぐらいにしてすでに人生の要諦をつかんでいるとは。陽気さと優しさがあふれるオープニングなのでした。

 

(チトー君はいい青年になるや、女の子を追いかけ回してはキッスのとき、にむかって色男ぶりを試行錯誤する日々です。一方の主人公は、成長すると父親の復讐を誓い荒野の流れ者となるのだった)。

 

映画のさいごでもまたラファティズ•ファミリーは、わたしを楽しくさせてくれる場面を展開してみせるのでした。いろんなことがあり、危険、策略、ロマンス、そしてアダムの父親が殺害された驚くべき真相••••物語は無事に終了し、アダムとチトーがパパとママがまつ牧場に帰還してきました。美しい女性連れです。

 

ママ「まあ、べっぴんさん、どっちのいい人かい?」。ヒロインがそっとアダムに身を寄せます。「チトー、おまえはいつになったら、いい人を連れてくるんだい?」というママをチトーは抱き寄せ「まってな。それまではママがおれのいい人さ」。子羊(四本の足をピンと伸ばしてぬいぐるのように、かわいい)を小脇にかかえたパパが主人公にいいます

 

「これで、おまえもやっと腰をすえて働けるな」(ラファティ家は羊飼いです)。「もちろん!」。ヤホーと満面の笑みのパパは歌い出しました。🎵優しいそよ風が吹けば、ゆりかごも優しくゆれるよ〜。しあわせいっぱいの子守唄です。子羊をだっこし優しく揺すりながら、そのお口に哺乳瓶をふくませています。

 

⚫【荒野の流れ者】1945年、モノクロ。監督はエドワード•キリーとウォーレス•グリッセルのふたり。ながい放浪が終わり、これから主人公の「キッスのとき」がはじまるのかと思うと、いつまでもお幸せになんて、見終わり、とてもハッピーな気分になってしまう西部劇なのです。