6②

→[6①から]わたしが出会いたいのは、広大な西部の土地から土地をめぐり渡る吟遊詩人なのです。そしてかれらにこそ、おねだりするのです。おとなしく安住する人びとが想像もできない、この世のさまざまなめぐり合わせを、おもしろおかしく、うたって聞かせてください、と。

 

また登場のさいは必ずロバにまたがり、のんびりとやってきてください、と。ロバのスローなテンポ、ノンシャランな歩み、これらは(誰もがすぐにかっとなり、やることなすことすべてが荒ぶれる西部劇にあって)吟遊詩人の反骨的ユーモアであり、吟遊詩人がかかげる独立独歩の旗印なのです。

 

『シエラ』(1950)にでてくるロンサムはまぎれもない放浪の歌うたいだ。かれが長旅からかえってくると、子供たちがすぐにかけよってきて、おねだりする。かれが披露する、お土産の新作「クジラのスージー」に子供たちは大喜び。こんなことは、定住のなんちゃってなどには到底できっこない芸当でしょう•••••あ?この甘くすてきな歌声は、どこかで•••••あ〜、なんと、『拳銃往来』の宿屋のおやじ、その人では。

 

一念発起(どんな心境の変化が•••••)知らぬ間に放浪稼業に身を投じていたとは、あのおやじ、とんだブラボー野郎だったのだ。かつての面影は微塵(みじん)もない。ありとあらゆる危難と幸運を味わってきた吟遊詩人の顔つきに変わっている。笑顔は、かつての皮肉めいた冷笑とはおおちがい、あけっぴろげな親しみと優しさとにあふれている。子供たちに好かれるはずだ。人間不信の青年(山奥に隠れ住んでいる)に信頼されるはずだ。

 

そして、ほんものの吟遊詩人となった宿屋のおやじ、すなわちロンサムは、もちろんロバにまたがっている。ロバのサラは、もちろんどんな急ぎの時にも道草を食ったりする。それはサラからロンサムへの忠告なのだろう「いつだって気ままに」あれ、という。またかれは親しき人のためとなれば、歌うカウボーイなみに、ためらわず行動に出るのだ。拳銃はぶら下げていないが、それ以上に強烈な武器をたずさえているのだから。

 

例の人間不信の青年が捕らえられた。ロンサムはギターをかかえ留置所に乗り込んだ。見張りの保安官補は晩飯の最中だ。ロンサムが子守唄がわりに、その魅惑の歌声を披露する。

🎵保安官補は晩飯をいっぱい食ってご満足、まぶたをとじて、いい気分〜🎵いい気分で落ちてゆく、いい気分で夢のなか、漂いながら迷い込む、漂いながら夢のなか〜🎵一日が終わり、もうすでに夢のなか〜

 

極上のクリームのような甘さ伸びやかさ。しびれます。どんなに勤務熱心な見張り番だって眠りこけてなぜ悪い(しかも満腹状態だ)。保安官補はこっくり、こっくり。ロンサムはそっと鍵を盗みとるのでした。なんとも強力な武器ではないか、吟遊詩人の、のどは。歌うカウボーイでは、こうは、うまくはいきません。自慢の拳銃をぶっ放して流血騒動を引き起こすのが落ち。それに比べ吟遊詩人の救出劇のなんとスマートなこと。

 

その歌声によって人を意のままにあやつり、深い眠りの淵に誘い込むとは•••••ほんものの吟遊詩人とはまた、恐るべき動物磁気の卓越した遣(つか)い手でもあったのです。ああ放浪に放浪をかさねる西部の吟遊詩人よ、おねがいします。その甘い歌声と、じっさいに見聞きした珍奇な物語をとおして、しびれさせてください。西部の荒野におとらず苦労おおい現代の浮世をさまよい歩くわたしの心を。

 

そして無邪気な子供の世界に迷い込ませてください(疲れることなく、いつまても飛びはねていたいのだ)。さあギターを奏で「クジラのスージー」を自慢の歌声でうたってください。

🎵サンフランシスコにスージーという名の、クジラの子供が住んでいた

🎵食べるのが大好きなスージー、仔牛もクマも、✳✳おばさんまでぺろりんこ

🎵クジラのスージー、チョコにケーキも大好きさ

    

(歌詞、せりふは、すべて記憶による引用のため、はなはだ不正確なものです)