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日記。3月20日水曜(休日出勤)。やっと5日ぶりに通便した。若い頃は便秘によく苦しめられたものだが(この言い方はおかしいよね。自分の生活が原因なわけだから、自分で自分を苦しめる、と言わないとね)この年齢になってからは久しぶりのことだ。プチ断食を敢行。昨日は野菜ジュースのみ。今朝も野菜ジュースのみ。朝から、からだの重心がなくなった感じ。空腹感はないが、頭のなかに雲が浮かんできそう。

 

仕事を中断し、コンビニでサンドイッチと生乳を。直後に通便。かなり踏ん張った(首の裏から背筋にかけてひきつる程に)。健康的な便がでた。オー!イエー!って感じだ。まあ『桃尻娘』の竹田かほり(のほうだったと思うが)ほどではないが。心配していた生理がやっときて、ベッドのうえで飛びあがり「やったー!」(ここでストップモーションになり幕。これは見た劇場も覚えているぞ。前世紀の話)。

 

日記から、おしゃべりへ。プルーストは便秘から開放された瞬間を、めんどりが卵を産み落としたときの快感だ、と言っていなかったか。抜群のイメージだね(卵で出産したい、と言った女優さんは誰でしたっけ)。体験したことのない快感を比喩にもちいていいの?と突っ込みたくなるが、なにせ相手がプルーストだ。このレベルになると、めんどりだった時代があったとしても不思議じゃない、と妙に納得してしまう(いや、それはない)。

 

この人(『失われた時を求めて』のマルセルプ•ルースト)ときたら快楽の大家だからな。苦痛、不快、恥辱、拷問、倒錯がもたらす快楽にかんして、一流の味わい手である。また人生のあらゆる分野における通人なのだ。そして感覚的想像力こそはどんな分野であれ、通人の最大の武器であろう。そうであれば、めんどりが産卵のときに味わう力み、けいれん、しびれといった、生命がふるえるような瞬間の快感を味わいつくす楽しみを、かれは知っていたのかもしれない。

 

おしゃべりから、おしゃべりへ。あるいは(ある大詩人が断言しているのだが)「ほんものの想像力をもつ人はどんな他人の魂のなかにでもすっと入っていくことができる。その人にとって、他人の魂は空席だ」とすれば、プルーストほどの者は、人間どころか、めんどりの魂と一体化することなど、なんでもないことなのだろう。たが、わたしの貧弱な想像力によれば、つぎのようなことが真実だと思えるのだ。

 

実際にめんどりの格好をして(お遊戯会の子供のように羽をつけ、顔にもそれなりのメイクをほどこし)固くゆでた卵を2、3個そのまま飲み込んでみる。それからしゃがみ込み、庭のなかをコケ、コケと鳴きながら走りまわる。そのうち激しい腹痛のうちに、ポロリとゆで卵を排出してしまった••••。あの小説を読めばこんな空想をしたくなるというものだ(どんな読み方だよ)。

 

あの小説は、学者や研究者どもによってあらゆる美や、さまざまや性や、表現という問題などにかんし、よってたかって声高にめった切りにされている。また、ペダンチックな誘いに富んでいて、いたるところで引用、引用と引き回されている。ちょっと前には、旅についての有名な一節が車内広告にでていた。『トランスポーター』では、フラン人の警視がジェイソン・ステイサムに紅茶をすすめながら超有名な一節を口にする。

 

また、一日中ベッドで横になって執筆したというプルーストのエピソードを、どれかの小説のなかの人物にしゃべらせているのはチャンドラーだ(映画版にもあったような)。わたしがいちばん秀逸だと思った引用は小説『トリプルX』だ。そこに登場するポルノショップの黒人店員が、これを読んでいる。この組み合わせは、この小説のあるべき位置のひとつを、ああそうか、と分からせてくれる。

 

この小説、わたしの理解では吸血鬼の愛読書ということになっている。わたしがこれを読もうと思ったきっかけが吸血鬼なのだ。ある映画(✳)の冒頭、夜が明けるか、まだ明けないかという寒々とした街の大通り。一人っ子ひとりいないアスファルトをふたりの男が怪しげな足取りでやってくる。会話からふたりが吸血鬼であることが分かる。たらふく血を吸い(それで足が、ふらついている)、これから帰って棺桶のベッドに入ろうというのだ。

 

ひとりが言っている「永いこと吸血鬼をやっていると、眠れない夜をどう過ごすか頭を悩ますものだ。最近の50年はプルーストの『失われた時を求めて』にはまってるよ」。ふたりの吸血鬼にすこしづつカメラが寄っていく。おお、しゃべっているのはクリストファー•ウォーケン!そうかC•ウォーケン、吸血鬼だったのか。やや小首をかしげ、半開きの口(得体のしれぬ気体を吐き出しているような)、人工の目そっくりに異様なかがやきの眼差し、病的な繊細さ。

 

最初に『グリニッジビレッジの青春』をみたときから、ただ者じゃないと感じていたが、この男、吸血鬼だったのか。100%納得。かれの吸血鬼、説得力100%。このシーンで決まりです。もう『失われた〜』を読むしかないよ。C•ウォーケン以外の誰が読んでいても、そうはならなかったな(クリストファー・リーには失礼だが。ヴァンパイアといえばこの人だ)。吸血鬼のC•ウォーケンがはまった小説となれば、これは読むしかないだろう?だから吸血鬼になったつもりで読むと、格別さ。

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(✳)いつも記憶のみを頼りにおしゃべりをしているため、引用や記述がはなはだ不正確となっています。さすがに、これは今ネット検索を入れてみた。『アディクション吸血の宴』と思われる。1994年、アベルフェラーラ監督。見た劇場は覚えている。同時上映は(これは覚えている)『アンディー•ウォーホールを撃った女』だった。題名あってるか?前世紀の話。

 

追記⬛めんどりの話、いまふと考えたが、苦労した挙げ句、ひとつの作品を作り出した時の快感の比喩だったのか?あの膨大な小説から、その部分を探し出すには、どれだけの時間が•••••