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気持ちのいい昼下がりの公園をぶらついていると、何やらぶつぶつと不平不満をもらす声が聞こえてきた。振り返ると台の上に銅像がたっている。ペンキを塗ったばかりらしく、陽の光を浴びて、どうだと言わんばかりに目立っている。しばらく耳を傾けてみた。

 

「いいご身分だこと。周囲の目などまったく気にせず、日がな一日、空を見上げて生きていけるなんて」。銅像の視線をたどると、ひとりの男がベンチで寝っ転がっている。それは、かれの安楽気分(何もかも放りだし、何もかもぬぎすてて)がみごとにつたわってくる、無防備なまでにリラックスした姿であった。

 

「あたしなんか決められたポーズ以外の動きをするのは御法度。おまけにこの重い衣服。そんな状態で、ゆきかう人びとの視線を四六時中浴びて微動だにせず立ちつづける。とんでもないお仕事よ。それでも、このところはわりと自由にできていたわ。というのも、ここに設置され、ずいぶんと年月がたったのでペンキの剥(は)げが激しくなってきた。

 

「そのうえ、あっちこっちに鳥の糞までくっついて。そんな薄汚れた銅像をわざわざ立ち止まって鑑賞する人などいやしないわ。そうなりゃ周囲の目など気にする必要があるかしら。疲れてくれば重心をかけている足をいれかえる。暑いときは胸ぐらから手を突っ込んで、わきの下の汗をふく。もう自由気まま、なんの気がねもなく、やりたい放題。

 

「開放的な気分のときなんか頬紅ぬって、スキップだってしちゃうわよ。そうそう、いつも決まった時間に散歩する老夫婦の会話に一度だけ、ひやりとしたことがあったわ。

ーーあれ、右手じゃなかったかい、いつも伸ばしているのは。

ーーなにをボケているの、左手ですよ。それより、くちびるに色なんてついてたかしら。

ーー銅像に口紅とは、たしかに前衛的だな。

 

「でもそんな自由なときも、とうとう終わってしまった。今朝、ペンキ屋が突然やってきて、あたしを頭のてっぺんから爪先までリニューアルしてしまった。ああ、恥ずかしいったらありゃしないわ。どう、この安っぽいテカテカとした光沢。ペンキ塗りたての銅像みたいにみっともない、とはまさしく、このあたしのことね。

 

「ゆく人ゆく人、わざわざ足を止めてじっくりと眺めまわす。それから、いつぱしの批評家ぶって口からでまかせのコメントを気がすむまで、浴びせかける。言うにこと欠いて

ーー公園に設置する銅像にしては、ちょっと胸元があきすぎじゃありません。

などと風紀委員みたいなことを言うやつまで。

 

「ああ、何がリニューアルよ、アンチ•エイジングなんてどうだっていいわ。こんな重い服から開放され、何もかもぬぎすて、身も心もかるくなりたいわ。ベンチに寝っ転がり、吸い込まれそうになるぐらい、真っ青な空をただただ眺めていたいわ。天空のあのあたりでなら、ほんとうのリニューアルができそうね」。

 

銅像の、この切実な嘆き節に突如、わたしは悟(さと)りを得た。悟りとは•••••つまり(平熱の人に言わせると•••••熱っぽい脳髄にふと浮かんだ思いつきを、思いっきり気取った言葉づかいで述べること、でしょう?)目がチカチカして、いつも見なれている景色や、なじみ深い考えが無数のピースとなってばらばらに解体し、一瞬の間、いつもの絵とは全くちがった別の絵柄のジグソーパズルが完成すること、なのだ。

 

ベンチで寝っ転がっている男は、何もかもぬぎすて(衣服のことじゃない)ひたすら耳を傾けているのだ。天空からの呼びかけ、進軍ラッパの音に。聴こえた者は神々の聖なる戦いにつらなるため、天空に召喚され青空のどこかの一点に吸い込まれてしまう。かれはその時を待ちつづけているのだ。かれにはすでに見えているのかもしれない。つぎつぎと湧き上がってくる雲の塊が、天翔ける古代戦車の行列に。

 

古代の説話集にでてくるある女性(いつも素っ裸で暮らしていた彼女のこころは、 裸のからだ以上に素っ裸だった)は毎日、野原に薬草をつんでいたが、あるとき突如として天高く舞い上がり、青空に吸い込まれてしまった。まことに「風流な、おなご」である。とうとう青空に取り憑(つ)かれてしまった銅像が「風流な、おなご」となって青空に吸い込まれてしまうことが、ないとは言えまい。

 

ある思いが一瞬でも心に浮かべば、ひとは、もうその思いから完全に逃れることはできない。その思いは、どんなかたちであれ、そのひとが気づこうが気づかまいが、かならずや成就してしまう。そのひとが気づかないとすれば、思いもかけないかたちをとって成就したからなのだ。だからどんな状態にあったとしても、ひとは(思いもかけないかたちで)素っ裸になれるし、素っ裸になったこころは、どんなに重い着衣だろうが、するりと抜け出してしまう。

 

わたしはこう願いながら公園をあとにしたーーその時まで、あの銅像が風邪や熱中症などに負けることなく、すこし楽な気持ちで、たちつづけられますように。