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駅馬車が土ぼこりをあげて到着した。アリゾナの田舎町、異国の趣きある国境ぞいの停留所。去る者、見送る者。早口でかわされる別れのことばや再会の約束。かれらを遠巻きにながめる土地の者。あたりはごった返し、なかには肩どうしがぶつかり合い険悪な表情をみせる者もいる。駅馬車の発着はちょっとしたひと騒動なのだ。

 

**夫人は駅馬車のタラップに片脚をかけたまま身をよじり(言い忘れたことが、ひとつでもあってはいけない、といった様子で)見送りの女性にむかって早口でまくしたてる「肉を食べすぎないで、リューマチには気をつけて。夜には植木鉢を取り入れること、子ネコも忘れずにね。それからカーペットはきちんと干すのよ」。

 

御者は彼女を押し込むと、自分の席に飛び乗りムチをいれる「出発!」。馬たちもまた、一息いれている余裕などないのだ。動きだした駅馬車の窓から不意に男が身を乗り出す。そして**夫人の見送りにきた女性にむかって「カーペットはきちんと干すのよ」(もちろん**夫人の声色をまねて)。乗客一同の爆笑と、歯ぎしりする**夫人「なんてイヤらしい人たちなの」。

 

かれらを乗せた駅馬車は再び土ぼこりをあげ、つぎの目的地をめざして広大な荒野に突っ込んでゆく。このあわただしい一幕は、はからずも、この西部劇『懐しのアリゾナ』(DVDで視聴)をみているわたしに、わたし自身の来し方を思い出させてしまいました。日々はあわただしく、つぎつぎとやって来ては、そのムチをわたしに振りおろす「はやくはやく、この駄馬が!」。

 

目前に迫ったものに急ぎとりかかり、どうやればいいのか了解する間もなく、追い立てられるように、つぎの何かにむかって転びだす。何ひとつ満ち足りたということがないあわただしさ。あるのは、あれもこれも中途半端にやり残してきた、というやるせない思いばかり。それらさえも今では煙と消えてしまっているではありませんか(まいったね)。

 

もしもあの乗客のなかにわたし同様、あたふたとした足どりで時の流れを旅している人がいたとしたらーーその人は、駅馬車が町の広場を駆け抜けるとき、窓の外から不意に聞こえてきた音楽に耳を傾け、はっとなっていることでしょう。そして、きっと、こんな思いにとらわれていたはずです「何か忘れものがあるのではないかと、ずっと気になっていたのだが、

 

この音楽だったのか。教会の回廊で楽士たちが奏でていたものだ。こんなにも心にしみてくる音楽だとは思いもしなかった。どうしてもっときちんと聴いてみようとしなかったのだろう」。その人が聴き残してきた魅惑の調べは、その人がかつて見残してきたなつかしいものの姿のように、あっという間もなく駅馬車の背後に逃れ去ってゆくのでした(ああ、いつだって、あとの祭りなのだ!)。

 

駅馬車の土ぼこりがおさまると、町はいつもの昼下がりである。ふりそそぐ陽光のもと市場には人びとがゆきかい、物売りのほがらかな声や、明るい子供の声、聞こえてくる犬の声がいきいきと響いてくる。辺境の町のにぎわいには、こせこせとしたところがなく、土地に根づいた穏やかさというものがある。雑踏するざわめきさえも、森林に遍在する鳥の鳴き声を聞くときのような心地よさをもっている。ここでは喧騒さえもがあわただしさとは無縁なのだ。

 

市場全体をおおっている天幕は夢のなかの大洋のように、ゆるやかに大きく波うっている。見る人の心を心地よく揺する天幕の動きをじっとながめていると、人は思いこんでしまうことだろう「どこかの港で、未知の国をめざす三本マストの帆船が、おれの乗船をまだかまだかと待っているのかもしれないぞ」と。町の広場にはまた、ながい時をへた石造りのおごそかな教会があり、回廊が長く伸びている。

 

回廊では頭に大きな籠をのせた女たちや、いかめしさよりも寛容の雰囲気にあふれる黒い衣の神父たちがすれ違いあっている。せまい回廊にもかかわらず、角のないそのしずかな物腰からみるに、土地の人たちは日々、落ち着いた呼吸の暮らしをしているのだらう。さて、回廊の一隅に集う粋な楽士たち、大きなつばのソンブレロをかぶり、白い絹のブラウス、黒の蝶ネクタイ、辺境の洒落者だ。

 

軽く壁にもたれ、あるいはゆったりと椅子にすわって脚を組み、じつに気楽な様子で、めいめいが自分の弦楽器を爪弾いている、そのなんともいえない楽しそうな雰囲気。そこに生まれ、あたりにひろがりゆくのは異国の調べ、機知とよろこび、生気となつかしさに富んだ魅惑の調べなのだ。その楽の音にのって、この辺境の田舎町を、柔らかな時間が優しい流れとなって通り過ぎてゆくのです。

 

あらんかぎりの思いをささげる侠賊シスコ•キッド。その愛をもて遊ぶ邪悪な浮気女。賞金に目がくらんだか、キッドを追跡する男に、あろうことかキッドを売り渡そうとする。ことの次第に気づいたキッドの落胆やいかに。どんなに愛していようが「自分を虚仮(こけ)にした女を見逃すのは、おれの悪名を傷つけることになる。おれの手を汚すことなく、女にはこの世から去ってもらおう」。

 

哀しみと血と涙にそまった、愛と裏切りと復讐の物語が、古き時代のアリゾナの地に展開されるこの1928年のモノクロ作品(原題、IN  OLD ARIZONA )、トーキー初の西部劇ということだ。