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つぎは**です、のアナウンスにちよっと驚いてしまった。こんなに遠くまでやってきたのか。ホームの駅名を見てわれに返った。ぼんやりと、とりとめのないことを考えていたために、ずいぶん長い時間がたったように思えたのだ。それでアナウンスの駅名を聞き間違えてしまったらしい。実際はほんの数駅しか通過していなかった。

 

わたしはうれしくなった。この調子でいけば、あと数十分あとに聞こえてくるアナウンスを「つぎの停車駅は火星です」なんて聞き間違えてしまうかもしれないぞ(そんなカッコいい名の曲がある)。ぼんやり好きのわたしの心はすぐにとりとめもなく、あちこちに浮遊しはじめ、あっという間に糸の切れた凧となって(わたしにも)見えなくなってしまうのだから。

 

こんなわたしであるから、時折り謹厳実直な人びとからお叱りを受けてしまう。つい先日もわたしの、近しい血族とか良き隣人とかという人がやってきて忠告を述べてくれた「大きなけだもののしっかりとした歩調に、あなたのふらつく歩みを合わせるのです」。勇壮さや確固たることなど窮屈でたまらないわたしは相変わらず、ぼんやりともの思いにふけっているのだ。降りるべき駅がどこかもよく考えもせずに。

 

「つぎは終着駅です」のアナウンスが聞こえてきた。わたしのぼんやり好きの心は、またロマンチック好みでもある。どんなことばにでも、すぐさまセンチメンタルな雰囲気をまとわせずにはおかないのだ。終着駅、ついにこの世界の果てまでやってきたのか。電車をおりればそこには見渡すかぎり無限のたそがれがしっとりと波うっていて、その黄金の波間には甘さと慰めに満ちた、なつかしい思い出がきらめいては消え、消えてはまた、かがやき続けていることだろう。

 

おりてみれば(そして、われに返る)、たしかにそこはその路線の終点である。かなりの時を乗っていたのだ。とはいえ日はまだまだ高かった。日没までに乗り込んだ駅に帰り着くのに十分の時間がある。降車し、ひと休みすことにした。脳髄のどこか深いあたりに、あるかないかの震えを感じるのだ。わたしはうれしくなった。それこそは、はっきりとした証(あかし)ではないのか。

 

わたしが乗ってきた電車がきらめく星々の間を走り抜けてきたことの、そして永遠から永遠に飛び去りゆく幾多の流星群と数限りない衝突を繰り返してきたことの。その衝撃がいまもなお、わたしのなかで、かすかに、あるかないかの震えとなって。

 

帰りの電車に乗ったわたしが、ぼんやりとしたまま降りるべき駅を乗り過ごしてしまうことにでもなれば(おおいにありそうだ)そのうち自分が降りるべき駅がさっぱり思い出せなくなってしまうだろう。「すでにそうなのだ」というお叱りの声がきこえてくる。そしてさまざまな導きの手がすり寄ってくるのだが、

 

わたしは、うっとりとして電車の窓から眺めているばかりだ。糸の切れた凧のように遠くの空を浮遊するわたしのロマンチックな思いを。