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「日記やお喋り」と、うたって、その1で「日記を書こう」と大仰に宣言しておきながら、おしゃべりばかり。これは、だめだ。日記を書こう。日記といえば思春期のガキが青っぽいことを熱っぽく語ってみたり、大文豪やその道の匠(たくみ)が芸術上のプランや苦悩を吐露したりするものでしょう。

 

創作家であったことはないが、ガキだったことはあるので、中学の3年間、日記をつけていた。一体何を書いてたんだ、毎日毎日。もちろん覚えていない、残っていたとしても読みたくない。恥ずかしいだけだ。とはいえ、こんな歳になっても腰の座った意見や生活からは程遠いボウフラみたいな日々を送っている、わたし。

 

中身はいまだガキなのか。相変わらず青っぽいことをカッコつけて(さすがに熱っぽくってことはないだろうが)書いているのか(恥ずかしい)。そういえば映画ノートを二十歳前後から数年間つけていたことを思い出した。若い頃、わたしはガリガリのスクリーン主義者だったのだ。スクリーン主義者だろうがスターリン主義者だろうが、主義者ほど怖いものはない。

 

当時のわたしは吠えまくっていた「映画は銀幕で見るもの。ビデオだと、退散せよ!」。この銀幕主義という病気は結構長くわずらっていて、完治したのは今世紀にはいってからだ。だが、このままならぬ浮き世は、つねに何かの主義者か**チュー(たとえば銀幕主義者の別称は小屋チュー即ち映画小屋中毒)でなければ生きてゆくのがむずかしい。

 

そこで人は、ひとつの主義者を卒業しても、すぐ次の新しい主義者を気取ることになる。どこまでいっても何が正気で、何が狂気の沙汰なのか判別しがたいこの世の船旅に欠かせない(その人専用の)羅針盤である、**主義とか**チューというものは。わたしも気づかないまま、いまも何とか主義の病にかかっているのかもしれない。おそろしい話だ。

 

映画ノートの第一ページ第一行は覚えている。正確にいえば、こう書かれていたはずである。「19**、*月*日、**劇場。『華麗なる大泥棒』をみる」。こうでなければならない。この映画をみて小屋チューになり、メモをつけ始めたのだから。古めかしいが相当数の客席をもった二番館だった。数年後には駐車場になった。最後の上映は『破壊』。

 

これは本当かどうかわからない。わたしのセンチメンタルな思い込みかもしれない。そもそも『破壊』というタイトルの洋画(そこは洋画専門)があるのかどうかも、あやしい。そこで見た作品ではっきり見たのを覚えているのは『小さな悪の華』。なかよしの少女ふたりが互いに火を放ちあい、炎に包まれながら「悪の華」を朗読する、あのフランス映画だ。

 

(おしゃべりではなく、日記を書こう)3月7日(木)。仕事休み。紹介状をもって、大きな病院にいく。精密検査。「いずれ手術の選択肢も頭に入れていたほうがよろしいかと。当面は薬での対処ということで」「原因は何でしょうか」「原因•••うーん、年とともにどうしても、いろいろと問題が•••どうしてもそれは•••」一方的に話をすすめる医者にいいかげん苛立っていたので「老化なら薬も手術も不要でしょう。

 

老化というのは生命がたどる正常な自然現象なわけで、それをごちゃごちゃとイジるなんぞ、罰当たりもいいところだ」(実際はもっと婉曲に)と言い返した。「子供だましみたいな屁理屈はともかく•••」ときたので「自然とはこの世界を生みだした神の御業であり、またそれによって生み出されたこの世界のことでもある。その神聖な自然の、正常な成り行きにあらがう所業を企てるとは、

 

それが医学というものか。この神学の端女(はしため)が、恥を知れ」と恫喝(どうかつ)したかったが我慢した。医学に失礼だとか、医者にたいする侮辱行為にあたると思ったからではない。「愚か者は、神など信じてもいないのに、神をもちだすのが自分に有利だと見れば、臆面もなく神の名を振り回す」というトマス•ホッブズのことばを思い出し、ひそかに恥じ入ったからだ。

 

医者は「そこまで言うのでしたら、もうこちらでお役に立てることは何もありません。どうぞ、お引き取りなさって結構です」と。どこまでも患者に寄り添うという医者としての務めを放棄したな。明らかに不調の兆候ある者にむかって出禁を言い渡すとは。マックで気持ちを落ち着かせながら、つらつら考えるに、からだの内も外もガタがきていて当然、と神妙な心になった。

 

なにしろ今日の今日まで、あとさき考えず、やりたいことやり、食いたいもの食ってきた。そりゃね。先ほどのホッブズ(万人は万人にたいして狼だ、で有名なあの人)がこう言っている。人は拡大鏡と望遠鏡を持っている。なのに使うのは、目の前の欲望や瞬時の情念をでっかくして見ることができる拡大鏡ばかり。望遠鏡を使って、いづれやってくる将来を見てみようとはしないものだ、と。

 

これには、ぐうの音もでないね。若い時に望遠鏡をのぞいていれば、膝痛、腰痛、神経症、糖尿、血管硬直、心臓肥大、視野狭窄、高血圧それから、それから、そんな恐ろしいものが、腐肉に群がりうごめくウジ虫の大軍のように、このいまの歳のわたしに群がっているおぞましい映像が、バッチリ見えてたってことですか。気づくと一時間以上も長居。

 

病院の出禁はなんてことないが、マック(わたしの休息スペース)の出禁はかなわないので近くの公園(わたしの日光浴タイム)へ。ベンチにだらけ座わりして、目の前のブロンズ像をながめる。最近ペンキを塗り直したばかりなのに、もうあちこち鳥のフンが付着している。何かぶつくさ言っていないか。フンに怒っているのかと思ったら、そうではない。逆だ。塗り直しに怒っている。アンチ•エイジングについて不満を漏らしているようだ。

 

先程の医者との会話から、こんな妄想をしてしまったみたい。見上げればいい天気だ。気がちょっと晴れた。30分弱、ふらふら歩いて帰宅。帰り着き、二階への、このうえなく危険な傾斜をもつ外階段(ちゃうど13段ある。踏みはずさないように、いつも声に出して数えているのだ)をあがっていると『リヴァイアサン』の一節が浮かんできた。

 

「人生のなかの厄災なんて予測不能だ。厄災にであってみて、やっと人は世界の暗黒に気づかされるのである」(ホッブズからの、かなり不正確な引用)。おいおい、望遠鏡なんてあっもなくても、どっちにしろ浮き世の航海は「メエルシュトレエムにのまれて」って、ということか。大渦巻はすぐ背後で(いつも背後でだ)唸りをあげている。知らぬが仏のこの世かな。おそろしい話だ。

 

危険な階段を無事に上り下りできたということは、とりあえず、きょうの一日を健(すこ)やかに過ごせたということでしょう。感謝。