6①

ふるい西部劇(DVD)を見ていると、よく出会うのがギターをかかえた歌うたいだ。土地から土地を渡りゆき、自慢の、のどを披露する。西部における吟遊詩人といったところでしょうか。

 

また、歌うカウボーイというものもいる。やはりギターをかかえているが、カウボーイの格好をして拳銃をぶらさげている。一度だけ初期のトーキー作品で見たことがある。若きジョン・ウェインがこれに扮していた。

🎵悪党ども、町は夜までに、火の海だ〜 🎵悪党ども、覚悟せよ、ひとり残らず、皆殺しだ〜

 

とうたいながら登場する。吟遊詩人はこんな物騒なやからではない。それに、かれらは歌うカウボーイのような行動主義者ともちがう。ジョン・ウェインは水利権をめぐる町の争いに介入し、悪党どもを一掃する。吟遊詩人は流血沙汰を好まない温厚なアーチストなのだ。

 

とはいえ、はたで見ているほど気楽な商売でもなさそうだ。『地獄への挑戦』(1949)に出てくるギター弾きがいい例である。かれは、ボブ•フォードその人をまえにして「卑劣漢ボブ•フォードに背後から射殺されたジェシー・ジェイムズをたたえるバラッド」をうたうという、とんでもない危険に直面することになってしまう。

 

吟遊詩人とはいえ、いつもロマンチックに花や星をうたってばかりはいられない。次のような歌をうたうときは細心の注意が必要だ。社会性の強いもの、誰かをたたえたり、逆に非難したりするような歌。そんな場合は、聴いている相手がどんな立場の、あるいはどんな意見の持ち主なのか、よく見極めなければ、このギター弾きの二の舞いだ。

 

とはいえ、はじめての町のはじめての酒場で、目の前の男が当の卑劣漢である、などと誰が見抜けるというのだ。そこでギター弾きのなかにはこんな人種もいる。放浪稼業につきものの予期せぬ危険をきらって定住し、定職のかたわら吟遊詩人を気取っているやつらだ。これは、なんちゃって吟遊詩人でしょう。

 

🎵金と女がいれば、男は年をとらない〜

なんてギターを弾き、うたっているのは宿屋のおやじだ。そこへひとりの風来坊がやってきた。おやじはすぐに追い出しにかかる。

🎵よそ者は、どこか遠いところにゆくがいい〜🎵そこで静かに暮らしておくれ〜

定住の歌うたいだけあって風来坊にはなかなか手きびしい。皮肉な笑みを浮かべ視線をあらぬ方に泳がせている。ときおり素早く横目で風来坊を盗み見する。

 

油断のならないギター弾きである。歌うたいというよりもスパイ向きの目つきだな、これは。おやじの歌など無視して、風来坊は勝手に宿帳を記入する。おやじが「おや、カンザスの出身で」というと無愛想に「おれは、これから行くところを書くことにしている」。なんともふざけた男じゃないか。そしていきなりおやじに「この町での、おまえの役割は何なのだ」とつめよる。おやじはにやりと笑い「詩人にして愚か者さ」。

 

これは(虚勢にしても)決まったね。カッコつけるのだけは一流とみえる。風来坊が金塊強奪事件の真相を突き止めようと東奔西走する『拳銃往来』(1948)はハードボイルド•タッチの西部劇だ。言わせてもらえるならば、全編をとおして、もっともハードボイルドの香りがするのは、映画の冒頭における風来坊とおやじの会話でしょう。互いにバチバチ、いい勝負であります。

 

あるとき風来坊は与太者マリオンと殴り合い、かれをぺしゃんこに、のしてしまう。それ以来、風来坊にたいする宿屋のおやじの態度が一変する。自分が風来坊のサイドにたっていることを明確に表明していたほうが、自分の利益になりそうだ、そう判断したのだろう。計算高い歌うたいだな。まあ、強い者の旗を振るというのは、まっとうな処世術、責められることでもないか。

 

数日後おやじが、なれなれしく風来坊に話しかける「与太者マリオンに合う韻、何かないかい」。風来坊がぶっきら棒に即答する「キャリオン(腐敗物質、と字幕に和訳が出る)」。お見事!ただ者じゃないな(じつは米国陸軍の軍人で、覆面捜査官)。宿屋のおやじ、さっそく新作に取りかかっているとみえる。きっと「与太者マリオンを成敗した風来坊をたたえ」なんていう題のバラッドにちがいない。

 

太鼓持ち向きの、ごますり野郎め。柔和にして甘い歌声(ほんとうに素晴らしい、のどの持ち主なのだ、このおやじ)だからといって、誰もが西部の詩人だと認めるわけにはいかないぞ。西部開拓時代の詩人とは、土地から土地を渡りゆく吟遊詩人であってほしいのだ。風雪や砂嵐のなかを旅してほしい。不意に勃発する酒場の撃ち合いに巻き込まれてほしい。とりわけ、孤独な夜の荒野にあって天上にかがやく月や星々をうたってほしいのだ。

 

わたしが西部劇のなかで出会いたいのは、宿屋のおやじのような定住する詩人ではなく、ほんものの吟遊詩人なのです。ロバに揺られながらやってくる、ロンサムおじさんのように放浪する詩人なのです。[6②に、つづく]→

 

 

 

 

 

 

 

 

5

「日記やお喋り」と、うたって、その1で「日記を書こう」と大仰に宣言しておきながら、おしゃべりばかり。これは、だめだ。日記を書こう。日記といえば思春期のガキが青っぽいことを熱っぽく語ってみたり、大文豪やその道の匠(たくみ)が芸術上のプランや苦悩を吐露したりするものでしょう。

 

創作家であったことはないが、ガキだったことはあるので、中学の3年間、日記をつけていた。一体何を書いてたんだ、毎日毎日。もちろん覚えていない、残っていたとしても読みたくない。恥ずかしいだけだ。とはいえ、こんな歳になっても腰の座った意見や生活からは程遠いボウフラみたいな日々を送っている、わたし。

 

中身はいまだガキなのか。相変わらず青っぽいことをカッコつけて(さすがに熱っぽくってことはないだろうが)書いているのか(恥ずかしい)。そういえば映画ノートを二十歳前後から数年間つけていたことを思い出した。若い頃、わたしはガリガリのスクリーン主義者だったのだ。スクリーン主義者だろうがスターリン主義者だろうが、主義者ほど怖いものはない。

 

当時のわたしは吠えまくっていた「映画は銀幕で見るもの。ビデオだと、退散せよ!」。この銀幕主義という病気は結構長くわずらっていて、完治したのは今世紀にはいってからだ。だが、このままならぬ浮き世は、つねに何かの主義者か**チュー(たとえば銀幕主義者の別称は小屋チュー即ち映画小屋中毒)でなければ生きてゆくのがむずかしい。

 

そこで人は、ひとつの主義者を卒業しても、すぐ次の新しい主義者を気取ることになる。どこまでいっても何が正気で、何が狂気の沙汰なのか判別しがたいこの世の船旅に欠かせない(その人専用の)羅針盤である、**主義とか**チューというものは。わたしも気づかないまま、いまも何とか主義の病にかかっているのかもしれない。おそろしい話だ。

 

映画ノートの第一ページ第一行は覚えている。正確にいえば、こう書かれていたはずである。「19**、*月*日、**劇場。『華麗なる大泥棒』をみる」。こうでなければならない。この映画をみて小屋チューになり、メモをつけ始めたのだから。古めかしいが相当数の客席をもった二番館だった。数年後には駐車場になった。最後の上映は『破壊』。

 

これは本当かどうかわからない。わたしのセンチメンタルな思い込みかもしれない。そもそも『破壊』というタイトルの洋画(そこは洋画専門)があるのかどうかも、あやしい。そこで見た作品ではっきり見たのを覚えているのは『小さな悪の華』。なかよしの少女ふたりが互いに火を放ちあい、炎に包まれながら「悪の華」を朗読する、あのフランス映画だ。

 

(おしゃべりではなく、日記を書こう)3月7日(木)。仕事休み。紹介状をもって、大きな病院にいく。精密検査。「いずれ手術の選択肢も頭に入れていたほうがよろしいかと。当面は薬での対処ということで」「原因は何でしょうか」「原因•••うーん、年とともにどうしても、いろいろと問題が•••どうしてもそれは•••」一方的に話をすすめる医者にいいかげん苛立っていたので「老化なら薬も手術も不要でしょう。

 

老化というのは生命がたどる正常な自然現象なわけで、それをごちゃごちゃとイジるなんぞ、罰当たりもいいところだ」(実際はもっと婉曲に)と言い返した。「子供だましみたいな屁理屈はともかく•••」ときたので「自然とはこの世界を生みだした神の御業であり、またそれによって生み出されたこの世界のことでもある。その神聖な自然の、正常な成り行きにあらがう所業を企てるとは、

 

それが医学というものか。この神学の端女(はしため)が、恥を知れ」と恫喝(どうかつ)したかったが我慢した。医学に失礼だとか、医者にたいする侮辱行為にあたると思ったからではない。「愚か者は、神など信じてもいないのに、神をもちだすのが自分に有利だと見れば、臆面もなく神の名を振り回す」というトマス•ホッブズのことばを思い出し、ひそかに恥じ入ったからだ。

 

医者は「そこまで言うのでしたら、もうこちらでお役に立てることは何もありません。どうぞ、お引き取りなさって結構です」と。どこまでも患者に寄り添うという医者としての務めを放棄したな。明らかに不調の兆候ある者にむかって出禁を言い渡すとは。マックで気持ちを落ち着かせながら、つらつら考えるに、からだの内も外もガタがきていて当然、と神妙な心になった。

 

なにしろ今日の今日まで、あとさき考えず、やりたいことやり、食いたいもの食ってきた。そりゃね。先ほどのホッブズ(万人は万人にたいして狼だ、で有名なあの人)がこう言っている。人は拡大鏡と望遠鏡を持っている。なのに使うのは、目の前の欲望や瞬時の情念をでっかくして見ることができる拡大鏡ばかり。望遠鏡を使って、いづれやってくる将来を見てみようとはしないものだ、と。

 

これには、ぐうの音もでないね。若い時に望遠鏡をのぞいていれば、膝痛、腰痛、神経症、糖尿、血管硬直、心臓肥大、視野狭窄、高血圧それから、それから、そんな恐ろしいものが、腐肉に群がりうごめくウジ虫の大軍のように、このいまの歳のわたしに群がっているおぞましい映像が、バッチリ見えてたってことですか。気づくと一時間以上も長居。

 

病院の出禁はなんてことないが、マック(わたしの休息スペース)の出禁はかなわないので近くの公園(わたしの日光浴タイム)へ。ベンチにだらけ座わりして、目の前のブロンズ像をながめる。最近ペンキを塗り直したばかりなのに、もうあちこち鳥のフンが付着している。何かぶつくさ言っていないか。フンに怒っているのかと思ったら、そうではない。逆だ。塗り直しに怒っている。アンチ•エイジングについて不満を漏らしているようだ。

 

先程の医者との会話から、こんな妄想をしてしまったみたい。見上げればいい天気だ。気がちょっと晴れた。30分弱、ふらふら歩いて帰宅。帰り着き、二階への、このうえなく危険な傾斜をもつ外階段(ちゃうど13段ある。踏みはずさないように、いつも声に出して数えているのだ)をあがっていると『リヴァイアサン』の一節が浮かんできた。

 

「人生のなかの厄災なんて予測不能だ。厄災にであってみて、やっと人は世界の暗黒に気づかされるのである」(ホッブズからの、かなり不正確な引用)。おいおい、望遠鏡なんてあっもなくても、どっちにしろ浮き世の航海は「メエルシュトレエムにのまれて」って、ということか。大渦巻はすぐ背後で(いつも背後でだ)唸りをあげている。知らぬが仏のこの世かな。おそろしい話だ。

 

危険な階段を無事に上り下りできたということは、とりあえず、きょうの一日を健(すこ)やかに過ごせたということでしょう。感謝。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

4

駅馬車が土ぼこりをあげて到着した。アリゾナの田舎町、異国の趣きある国境ぞいの停留所。去る者、見送る者。早口でかわされる別れのことばや再会の約束。かれらを遠巻きにながめる土地の者。あたりはごった返し、なかには肩どうしがぶつかり合い険悪な表情をみせる者もいる。駅馬車の発着はちょっとしたひと騒動なのだ。

 

**夫人は駅馬車のタラップに片脚をかけたまま身をよじり(言い忘れたことが、ひとつでもあってはいけない、といった様子で)見送りの女性にむかって早口でまくしたてる「肉を食べすぎないで、リューマチには気をつけて。夜には植木鉢を取り入れること、子ネコも忘れずにね。それからカーペットはきちんと干すのよ」。

 

御者は彼女を押し込むと、自分の席に飛び乗りムチをいれる「出発!」。馬たちもまた、一息いれている余裕などないのだ。動きだした駅馬車の窓から不意に男が身を乗り出す。そして**夫人の見送りにきた女性にむかって「カーペットはきちんと干すのよ」(もちろん**夫人の声色をまねて)。乗客一同の爆笑と、歯ぎしりする**夫人「なんてイヤらしい人たちなの」。

 

かれらを乗せた駅馬車は再び土ぼこりをあげ、つぎの目的地をめざして広大な荒野に突っ込んでゆく。このあわただしい一幕は、はからずも、この西部劇『懐しのアリゾナ』(DVDで視聴)をみているわたしに、わたし自身の来し方を思い出させてしまいました。日々はあわただしく、つぎつぎとやって来ては、そのムチをわたしに振りおろす「はやくはやく、この駄馬が!」。

 

目前に迫ったものに急ぎとりかかり、どうやればいいのか了解する間もなく、追い立てられるように、つぎの何かにむかって転びだす。何ひとつ満ち足りたということがないあわただしさ。あるのは、あれもこれも中途半端にやり残してきた、というやるせない思いばかり。それらさえも今では煙と消えてしまっているではありませんか(まいったね)。

 

もしもあの乗客のなかにわたし同様、あたふたとした足どりで時の流れを旅している人がいたとしたらーーその人は、駅馬車が町の広場を駆け抜けるとき、窓の外から不意に聞こえてきた音楽に耳を傾け、はっとなっていることでしょう。そして、きっと、こんな思いにとらわれていたはずです「何か忘れものがあるのではないかと、ずっと気になっていたのだが、

 

この音楽だったのか。教会の回廊で楽士たちが奏でていたものだ。こんなにも心にしみてくる音楽だとは思いもしなかった。どうしてもっときちんと聴いてみようとしなかったのだろう」。その人が聴き残してきた魅惑の調べは、その人がかつて見残してきたなつかしいものの姿のように、あっという間もなく駅馬車の背後に逃れ去ってゆくのでした(ああ、いつだって、あとの祭りなのだ!)。

 

駅馬車の土ぼこりがおさまると、町はいつもの昼下がりである。ふりそそぐ陽光のもと市場には人びとがゆきかい、物売りのほがらかな声や、明るい子供の声、聞こえてくる犬の声がいきいきと響いてくる。辺境の町のにぎわいには、こせこせとしたところがなく、土地に根づいた穏やかさというものがある。雑踏するざわめきさえも、森林に遍在する鳥の鳴き声を聞くときのような心地よさをもっている。ここでは喧騒さえもがあわただしさとは無縁なのだ。

 

市場全体をおおっている天幕は夢のなかの大洋のように、ゆるやかに大きく波うっている。見る人の心を心地よく揺する天幕の動きをじっとながめていると、人は思いこんでしまうことだろう「どこかの港で、未知の国をめざす三本マストの帆船が、おれの乗船をまだかまだかと待っているのかもしれないぞ」と。町の広場にはまた、ながい時をへた石造りのおごそかな教会があり、回廊が長く伸びている。

 

回廊では頭に大きな籠をのせた女たちや、いかめしさよりも寛容の雰囲気にあふれる黒い衣の神父たちがすれ違いあっている。せまい回廊にもかかわらず、角のないそのしずかな物腰からみるに、土地の人たちは日々、落ち着いた呼吸の暮らしをしているのだらう。さて、回廊の一隅に集う粋な楽士たち、大きなつばのソンブレロをかぶり、白い絹のブラウス、黒の蝶ネクタイ、辺境の洒落者だ。

 

軽く壁にもたれ、あるいはゆったりと椅子にすわって脚を組み、じつに気楽な様子で、めいめいが自分の弦楽器を爪弾いている、そのなんともいえない楽しそうな雰囲気。そこに生まれ、あたりにひろがりゆくのは異国の調べ、機知とよろこび、生気となつかしさに富んだ魅惑の調べなのだ。その楽の音にのって、この辺境の田舎町を、柔らかな時間が優しい流れとなって通り過ぎてゆくのです。

 

あらんかぎりの思いをささげる侠賊シスコ•キッド。その愛をもて遊ぶ邪悪な浮気女。賞金に目がくらんだか、キッドを追跡する男に、あろうことかキッドを売り渡そうとする。ことの次第に気づいたキッドの落胆やいかに。どんなに愛していようが「自分を虚仮(こけ)にした女を見逃すのは、おれの悪名を傷つけることになる。おれの手を汚すことなく、女にはこの世から去ってもらおう」。

 

哀しみと血と涙にそまった、愛と裏切りと復讐の物語が、古き時代のアリゾナの地に展開されるこの1928年のモノクロ作品(原題、IN  OLD ARIZONA )、トーキー初の西部劇ということだ。

 

 

 

3

つぎは**です、のアナウンスにちよっと驚いてしまった。こんなに遠くまでやってきたのか。ホームの駅名を見てわれに返った。ぼんやりと、とりとめのないことを考えていたために、ずいぶん長い時間がたったように思えたのだ。それでアナウンスの駅名を聞き間違えてしまったらしい。実際はほんの数駅しか通過していなかった。

 

わたしはうれしくなった。この調子でいけば、あと数十分あとに聞こえてくるアナウンスを「つぎの停車駅は火星です」なんて聞き間違えてしまうかもしれないぞ(そんなカッコいい名の曲がある)。ぼんやり好きのわたしの心はすぐにとりとめもなく、あちこちに浮遊しはじめ、あっという間に糸の切れた凧となって(わたしにも)見えなくなってしまうのだから。

 

こんなわたしであるから、時折り謹厳実直な人びとからお叱りを受けてしまう。つい先日もわたしの、近しい血族とか良き隣人とかという人がやってきて忠告を述べてくれた「大きなけだもののしっかりとした歩調に、あなたのふらつく歩みを合わせるのです」。勇壮さや確固たることなど窮屈でたまらないわたしは相変わらず、ぼんやりともの思いにふけっているのだ。降りるべき駅がどこかもよく考えもせずに。

 

「つぎは終着駅です」のアナウンスが聞こえてきた。わたしのぼんやり好きの心は、またロマンチック好みでもある。どんなことばにでも、すぐさまセンチメンタルな雰囲気をまとわせずにはおかないのだ。終着駅、ついにこの世界の果てまでやってきたのか。電車をおりればそこには見渡すかぎり無限のたそがれがしっとりと波うっていて、その黄金の波間には甘さと慰めに満ちた、なつかしい思い出がきらめいては消え、消えてはまた、かがやき続けていることだろう。

 

おりてみれば(そして、われに返る)、たしかにそこはその路線の終点である。かなりの時を乗っていたのだ。とはいえ日はまだまだ高かった。日没までに乗り込んだ駅に帰り着くのに十分の時間がある。降車し、ひと休みすことにした。脳髄のどこか深いあたりに、あるかないかの震えを感じるのだ。わたしはうれしくなった。それこそは、はっきりとした証(あかし)ではないのか。

 

わたしが乗ってきた電車がきらめく星々の間を走り抜けてきたことの、そして永遠から永遠に飛び去りゆく幾多の流星群と数限りない衝突を繰り返してきたことの。その衝撃がいまもなお、わたしのなかで、かすかに、あるかないかの震えとなって。

 

帰りの電車に乗ったわたしが、ぼんやりとしたまま降りるべき駅を乗り過ごしてしまうことにでもなれば(おおいにありそうだ)そのうち自分が降りるべき駅がさっぱり思い出せなくなってしまうだろう。「すでにそうなのだ」というお叱りの声がきこえてくる。そしてさまざまな導きの手がすり寄ってくるのだが、

 

わたしは、うっとりとして電車の窓から眺めているばかりだ。糸の切れた凧のように遠くの空を浮遊するわたしのロマンチックな思いを。

2

巨大製紙会社の社長バーニーは旧友スワンのひとり娘ロッタをひと目見るや、驚きと忘我のうちに、ことばをなくしてしまう。彼女はまったくの生きうつしだった。若きバーニーと愛を語り合い、未来を誓い交わしたあの酒場の歌姫ロッタに。今はなき、うるわしのロッタ嬢(男まさりにして、なんと情けにあつかったこと)が昔のままの若さでバーニーのまえに再びあらわれたかのようである。

 

かれの心もはるか昔の血潮に若返ったのでしょうか。かれのなかでスワンのひとり娘ロッタへの愛が燃え上がります。おのれの地位も年齢もかえりみることなく若い女性に迫り、手ごたえのなさに苦悩し激しく嫉妬する初老の男。そのさまは愚かさや滑稽さを通り越して、かなわぬ愛の奴隷となって自分を見失ってしまうシリアスな悲劇の主人公のようでもあります。

 

それほどまでにバーニーの愛は真剣なのでした。そして再び見出されたとも言えるこの愛は、昔日の愛をはるかに凌駕し、その燃え上がる嫉妬の炎はバーニー自身を焼き尽くさんばかりなのです。たしかに若き日に酒場の歌姫ロッタに捧げた愛に嘘偽りはなかった。だがその愛に盲目となり自分を見失ってしまうことはなかった。自分の一大帝国をつくりあげるという、おのれの野望を忘れ去る程、かれはその愛に溺れてしまいはしなかったのだ。

 

ぎりぎりのところでバーニーは歌姫ロッタをほっぽりだし、製紙会社の社長令嬢との結婚へと走ったのだった。そしてみごとに野望を成就させ今や帝王の権力をふるうにいたったバーニー。そのかれを焼き尽くさんばかりの嫉妬の炎は、はるかな時を超えて復讐をくわだてる歌姫ロッタの情念なのでしょうか。あるいはバーニーが失ったものがなんであったかをかれに悟らせようとする、バーニーの若き日そのものの復讐なのでしょうか。

 

さて、巨大カンパニーの全関係者が集う、バーニー主催の盛大なパーティーのその日、かれは是が非でも今日こそはロッタをわがものにしようと意を決します。そんなかれのもとへただならぬ形相の息子**がロッタをともないやってきます。そして宣言するのです「われわれは愛し合っている。何が何でも一緒になるつもりだ」。不意を突かれたバーニーの意識がほんの一瞬とばなかったなんてことがありましょうか。

 

若者同士の愛を目の前に突きつけられ、白日の下に敗北を受け入れざるを得なくなっバーニーはやっと正気をとりもどします。そして不釣り合いな愛に(しかも相手を無視して)猪突猛進したおのれの愚かさ、滑稽さを思い出しては恥ずかしさのうちに悶え、木っ端みじんにならんばかりだったことでしょう。真っ赤な鬼の形相となったバーニーは有無を言わさず「ふたりとも今すぐ、この屋敷から出ていけ!」。

 

かつて味わったことのない虚脱感に沈むバーニーにかれの奥方が傲然と言い放ちます「人生、すべてが思いどおりになるものではない、ということを思い知るのね」。この奥方こそは、若き日のバーニーが野望実現のためにだけ結婚した、何のおもしろみもない平凡な女性だったのです。その彼女のことばが古代の神託のような響きと鋭さを持ってバーニーの心につき刺さるのです。

 

正気にもどったものが自暴自棄となって、また別の狂気に陥るという話を見たり聞いたりするのは、とても楽しく興奮するものだ。バーニーはパーティーの紳士淑女をめがけてライフルを手当たりしだいに•••••あるいは、地位も財産もすて去ったバーニーは、遠い昔、森林伐採に従事していた雪深い山間の荒野にたどり着く。そして今は跡形もなく消え去った娯楽場(歌と踊り、乱痴気騒ぎ)の跡地をさまよい続けるのだ。歌姫ロッタのまぼろしを探して•••••

 

敗北のなかでそのまま崩れ落ちてしまう程やわな男ではなかった、この偉大な成り上がり者は。歯を食いしばり両股に力を込めて踏ん張ったバーニーは全身の震えをおさえこみ、萎え落ちた気持ちをグッとひとおもいに直立させます。「新たな時のはじまり、それはきびしいものだ」(誰の一句でしたか?)。かれの奥底からふつふつと血潮が沸き起こり、その新生の波動に鼓舞された覇気が、かれの全身をぱんぱんに張り切りあげるのです。

 

バーニーはパーティーに集まった紳士淑女の群れにむかって、野性味たっぷりの剛毅な野太い声を張り上げます。年季のはいったでっかいトライアングルを激しく打ち鳴らして「ものども、飯の時間だぜ、COME   AND   GET   IT  ! 、もたもたしていると犬どもに食わせてしまうぞ」COME   AND  GET  IT  ! というバーニーのことばをそのままタイトルにしたが、この1936年のモノクロ映画なのです(DVDにて視聴)。

 

「ものども、飯の時間だぜ、•••」この台詞はまた、現場監督をしていた時代のバーニーが森林伐採の男どもにむかって叫んだことばでもあるのだ。でっかいトライアングルを打ち鳴らしながら。屈強な男どもがわれがちに屋外の木造りテーブルに殺到する。そして今、パーティーに集まった紳士淑女の群れが豪華なディナーの席へ、波のように押し寄せる。そのあいだをぬって若いふたりが手を取り合って玄関の方へ遠ざかってゆく。

 

この映画の前半部分は森林伐採のきびしい現場を描いていて、大自然のなかで働く男どもの荒々しい活力が画面いっぱいにみなぎっている西部劇である。ピラミッドのように積み上げられた木材が次々と雪解けなった大河を流れゆく場面、ロングであらゆる角度からとらえられるその様は(爆破によってなだれ崩れた木材群が水しぶきを上げて大河に突っ込んでゆく)迫力満点のドキュメンタリータッチである。

 

酒場における乱闘騒ぎは西部劇でのお約束のひとつであるが、この映画のそれはちょっとユニークだ。大勢の男どもが(もちろん酒場の女のコたちも黙ってはいない)画面狭しと殴り合い、投げとばし合うだけではない。画面上をいくつもの銀色のトレーが空飛ぶ円盤のようにものすごい勢いで右から左へ、左から右へと飛んでゆく。シャンデリアをぶち壊し、棚に並んだ酒瓶を粉々にし、男どもを一瞬にしてなぎ倒す。これは興奮のすさまじさ。

 

この乱闘騒ぎに参加し、バーニーやその友スワンに負けず劣らず、ならず者を相手に暴れまわった歌姫ロッタは、おだやかな家庭の主婦となった(スワンの奥方となったのだ)あとあとまでも、こときのトレーの一枚をずっと居間の壁に飾っていたものだ。夢と活力にみちていた青春、そのワイルドな思い出の記念として。ああ、男まさりの歌姫ロッタ、彼女のなんと情けにあつかったこと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

1

たのしみが何かほくなった。日記をつけてみよう。おもしろいと思ったことを書いて、みずからたのしめれば、それこそたのしい。

 

ものを考えることが苦手な者(考えようとする努力をしない者、というべきでしょう)にとって、赤ん坊の素朴さはうらやましいかぎりだ。あるコント(小話)にでてくる赤ん坊は新築のカフェをまえに、その豪華さに目を奪われ、ただただ呆然としているだけである。

 

わたしたち大の大人には決して許されることのない素朴さだ。いまや子供にだって許されてはいないようだ。最近の中学入試問題をみて驚いた。「おもしろいと思った理由を述べなさい。また、それとよく似た他のおもしろさをひとつあげ、ふたつのおもしろさの違いを具体的に述べなさい」。

 

これにはまいった。おもしろいと賛嘆の声をあげるだけでは世の中、なかなか納得してくれないのだ。おもしろさの正体を突きとめようと根ほり葉ほり問いかける。そうであってみれば誰もかれもがオムツがとれたとたん、おのれの独特の視点や切り口で、おもしろさの分析と説明をやりはじめるのだろう。

 

赤ん坊を抱いている親父はもっともらしい経済学的分析を披瀝する、その新築のカフェについて。そして親父に手を引かれた小僧は世間の礼儀どおりの、もののわかったような説明で自分の欲望をコントロールしてみせる。さて困ったものは甘やかされた脳髄である(わたしの脳髄もまた、その一族なのだ)。

 

ほんのちょっと何かを考えなけれぼならないとする。もうだめだ。ヘッドギアを強制装着させられ、感情の自由を奪われた無惨な人間になったように感じて悲しくなってしまう。それだけならまだ、かわいげがあって慰めようもあるのだが、甘えん坊はまたわがままでもある。そこで甘やかされた脳髄は一転、逆ギレ気味に自己弁明を声たかく展開する。

 

「精神のバランスを保つのに日々必死で、(かと思えば)その時その時の欲望に負けるのに飽き足らず、(そのくせ)やるべきことをやらなかった報いで良からぬことがいつ起きるかと一瞬一瞬不安がる。これが人の一生というもの。ものごとを考えている余裕などどこにある」。泣き言さえもカッコつけずにはいられない困った脳髄である。

 

あの赤ん坊をごらんなさい。われを忘れ、ただ呆然と大きく目を見開いている。感嘆したものについての分析も解釈もないのはもちろん、それがないことへの言い訳もない。ただただ見開かれたお目々があるだけ。うらやましい限りだね、この素朴さは。赤ん坊のお目々、万歳!大きなまん丸のお目々に眩惑と陶酔を!

 

日記を書きたくなった。毎日となれば三日坊主になるのは必定、ここは書いたり書かなかったり、ゆるゆるといってみたい。おもしろいと思ったこと、を書いてゆきたい。するどい切り口やユニークな視点などには興味がないが(悲しいかな、つまり持っていないのだ)、素朴さはほしい。だが、これこそは今更どうにもならないものである。

 

いま一度オムツのお世話になるようになれば(いずれはそうだろう)再びあのすてきな素朴さというものが戻ってくることもあろう。その時は感嘆符だけの日記が、誰の目も気にせず(一番気になるのが自分の目という、この面倒くささ)書けるだろう。それまでは仕方ない、ちょっと深く考えるかわりに、ことばをあれこれ飾りたてて楽しんでみたい。

 

衣服のいたるところにフリルをほしがるちっちゃな女の子を見習おう。あっちにもこっちにも気障(きざ)なことばを、ぬいつける。野ざらしの案山子(かかし)にステキな着物をまとわせるように、貧弱な中身の話を豪奢な模様の端切れで、ごてごてと飾り立てる。孤独でやせっぽちの案山子に思いっきり気取ったポーズをとらせてあげるんだ。

 

これが甘やかされた脳髄がふける最高の気晴らしなのです。今日の昼下がり街の大通りで、案山子と腕を組んで歩いている老貴婦人が目にはいりました。都会の巷(ちまた)では毎日のように変わった人や出来事にお目にかかるので、そんな光景をみても誰も驚かないようです。それにみんな自分のことにいそがしい。

 

ちょっとしたことにでも好きごころを動かされてしまうわたしは(それにいつだって暇なのだ)「案山子と老貴婦人という組み合わせはなかなかあるものではないぞ」と、この素晴らしいカップルの後をつけてみることにしました。ふたりは永遠を旅する宿命のカップルのごとく、人ごみの中を宇宙遊泳者然とした足どりですすんでゆくのでした。