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たのしみが何かほくなった。日記をつけてみよう。おもしろいと思ったことを書いて、みずからたのしめれば、それこそたのしい。

 

ものを考えることが苦手な者(考えようとする努力をしない者、というべきでしょう)にとって、赤ん坊の素朴さはうらやましいかぎりだ。あるコント(小話)にでてくる赤ん坊は新築のカフェをまえに、その豪華さに目を奪われ、ただただ呆然としているだけである。

 

わたしたち大の大人には決して許されることのない素朴さだ。いまや子供にだって許されてはいないようだ。最近の中学入試問題をみて驚いた。「おもしろいと思った理由を述べなさい。また、それとよく似た他のおもしろさをひとつあげ、ふたつのおもしろさの違いを具体的に述べなさい」。

 

これにはまいった。おもしろいと賛嘆の声をあげるだけでは世の中、なかなか納得してくれないのだ。おもしろさの正体を突きとめようと根ほり葉ほり問いかける。そうであってみれば誰もかれもがオムツがとれたとたん、おのれの独特の視点や切り口で、おもしろさの分析と説明をやりはじめるのだろう。

 

赤ん坊を抱いている親父はもっともらしい経済学的分析を披瀝する、その新築のカフェについて。そして親父に手を引かれた小僧は世間の礼儀どおりの、もののわかったような説明で自分の欲望をコントロールしてみせる。さて困ったものは甘やかされた脳髄である(わたしの脳髄もまた、その一族なのだ)。

 

ほんのちょっと何かを考えなけれぼならないとする。もうだめだ。ヘッドギアを強制装着させられ、感情の自由を奪われた無惨な人間になったように感じて悲しくなってしまう。それだけならまだ、かわいげがあって慰めようもあるのだが、甘えん坊はまたわがままでもある。そこで甘やかされた脳髄は一転、逆ギレ気味に自己弁明を声たかく展開する。

 

「精神のバランスを保つのに日々必死で、(かと思えば)その時その時の欲望に負けるのに飽き足らず、(そのくせ)やるべきことをやらなかった報いで良からぬことがいつ起きるかと一瞬一瞬不安がる。これが人の一生というもの。ものごとを考えている余裕などどこにある」。泣き言さえもカッコつけずにはいられない困った脳髄である。

 

あの赤ん坊をごらんなさい。われを忘れ、ただ呆然と大きく目を見開いている。感嘆したものについての分析も解釈もないのはもちろん、それがないことへの言い訳もない。ただただ見開かれたお目々があるだけ。うらやましい限りだね、この素朴さは。赤ん坊のお目々、万歳!大きなまん丸のお目々に眩惑と陶酔を!

 

日記を書きたくなった。毎日となれば三日坊主になるのは必定、ここは書いたり書かなかったり、ゆるゆるといってみたい。おもしろいと思ったこと、を書いてゆきたい。するどい切り口やユニークな視点などには興味がないが(悲しいかな、つまり持っていないのだ)、素朴さはほしい。だが、これこそは今更どうにもならないものである。

 

いま一度オムツのお世話になるようになれば(いずれはそうだろう)再びあのすてきな素朴さというものが戻ってくることもあろう。その時は感嘆符だけの日記が、誰の目も気にせず(一番気になるのが自分の目という、この面倒くささ)書けるだろう。それまでは仕方ない、ちょっと深く考えるかわりに、ことばをあれこれ飾りたてて楽しんでみたい。

 

衣服のいたるところにフリルをほしがるちっちゃな女の子を見習おう。あっちにもこっちにも気障(きざ)なことばを、ぬいつける。野ざらしの案山子(かかし)にステキな着物をまとわせるように、貧弱な中身の話を豪奢な模様の端切れで、ごてごてと飾り立てる。孤独でやせっぽちの案山子に思いっきり気取ったポーズをとらせてあげるんだ。

 

これが甘やかされた脳髄がふける最高の気晴らしなのです。今日の昼下がり街の大通りで、案山子と腕を組んで歩いている老貴婦人が目にはいりました。都会の巷(ちまた)では毎日のように変わった人や出来事にお目にかかるので、そんな光景をみても誰も驚かないようです。それにみんな自分のことにいそがしい。

 

ちょっとしたことにでも好きごころを動かされてしまうわたしは(それにいつだって暇なのだ)「案山子と老貴婦人という組み合わせはなかなかあるものではないぞ」と、この素晴らしいカップルの後をつけてみることにしました。ふたりは永遠を旅する宿命のカップルのごとく、人ごみの中を宇宙遊泳者然とした足どりですすんでゆくのでした。